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ヨハネス・ケプラー:Kepler
【年間の観測情報から数学を使い天文学を確立_法則の確立】‐5/10改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
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(以下原稿です)v

ケプラーTシャツ
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【1571年12月27日生まれ ~ 1630年11月15日没】

ケプラーの生い立ち

ドイツのヴァイル(Weil-der-studt)
に生まれたケプラーは天文学者にして数学者、
哲学者、占星術師でありました。

そして、今から見たら不幸な家庭環境で育ちます。
ケプラーの母は薬草治療をしてました。楽しい思い出は
「家族で月食を見た」くらいだったと言われています。
あぁ寂しいケプラー少年。

ケプラーは数字を厳密に扱う反面で無頓着な側面もあった
と言われています。例えば自分の名前を書くときに

「kepler, keppler, khpler, kepierusを同じ時期に使っていた」
(アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」より引用)

と言われています。 なにより、  

ケプラーの天文物理学の仕事として素晴らしい点は、

年間の観測情報から数学を使った考察を進め、

天体の星達が(基本的には平面上で)楕円軌道を描く

とか公転周期と面積速度の関係を導き出すといった

秩序だった理論的な結果を導き出した点です。

ケプラーは「数学モデル」を物理学に当てはめた

初めての物理学者だったという事実も見逃せない点です。

今では当たり前に思えるのですがケプラーの時代は

物事を考える土壌が出来上がっていませんでした。

更に実験を結びつけて議論の裏付けをとり、

後の時代の物理学者たちは説得力を増すのです。

そして有名なケプラーの3法則を提唱しています。

惑星運動のケプラーの法則:
惑星は、太陽を一つの焦点とする楕円軌道上を運動する。
②惑星と太陽を結ぶ線は、等しい時間に等しい面積を掃く。
③惑星の公転周期:Tの2乗は、軌道の長半径:aの3乗に比例する。

そんなケプラーは幼少期に苦労します。

ケプラーの父は家族の為に傭兵として戦いに参加します。

ケプラーが5歳から17歳の間、頑固で喧嘩好きな父は家族と離れ

暮らしていました。そして宗教戦争(オランダ独立戦争)で、父は

ネーデルランド(現.オランダ)で亡くなったと言われています。

そしてケプラーは幼少時代に
神学校に通い教養を身に付けます。
そこでは
日常会話もラテン語で行われる、厳格な教育がなされました。
後のケプラーのドイツ語で書かれた手紙などの文体は
「天真爛漫で泥臭く魅力的であるものとなっており、
あたかも厳しい講義室から解放されて、
田舎の縁日か何かで楽し気な歌声をあげている、
というような響きがある。」と評されています。
(アーサー・ケストラー著「ヨハネス・ケプラー」より引用)
逆説的ですがラテンの教養はケプラーの人生に
重要な
効果を与えていたのではないでしょうか。 

また、ケプラー本人は天然痘にかかり視力低下にあい、
一生続く苦難を受けました。また天然痘では、、、
ケプラーは妻子を失ってしまいます。

ケプラーの業績

 

そんなケプラーは天文学者として地動説に出合いました。

特にコペルニクスがコペルニクス的転回を打ち出した

タイミングでケプラーは天文を学びましたが、

ケプラーはコペルニクスを全面的に支持します。

そういった考え方を読んで推し進めるケプラーを

今度はガリレオ・ガリレイが支持します。

そして何よりケプラーはティコ・ブラーエに出会います。

ケプラーと科学の進歩

科学が飛躍的に進化する時代があると思えますが、

ケプラーの前後の時代はまさに、そんな時代でしょう。

この時代の動きがあったからこそ、後の時代の思索の中で

力学が生まれてきて、電磁気学が生まれてきたのです。

20世紀の初頭にも国を超えて人々が議論して

科学技術に大きな進展が見受けられました。

そんな視点で「社会史」の側面を垣間見ながら

「科学史」を考えてみると人類の進化を感じられます。

私が「進化」と呼んだ「変化」が好ましいか

という議論がありますが、私は好ましいと思います。

可能性が広がるからです。

技術(知見)を制御する責任は別問題で別途、議論します。

 

ティコ・ブラーエは遺言で集めた膨大な

データを遺産としてケプラーに残しました。

価値ある貴重なデータをケプラーがが受け取り

そして整理して様々な法則を作り出します。

2人の業績から今に残るケプラーの法則が完成したのです。

惑星の運動は体系立てられ幾何学上で表現されています。

ケプラーは星を考える枠組みを作り出したのです。

そして次なる様々な理論体系に繋がっていったのです。

〆最後に〆

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Kepler’s Birth Born

Kepler’s Birth Born in Germany, Kepler was an astronomer, mathematician, philosopher, and astrologer. And Kepler’s mother was doing herbal remedies. The great thing about Kepler’s work in astronomical physics is that it advances mathematical consideration from annual observation information, and the stars of the celestial body draw elliptical orbits (basically on a plane), orbital period and area velocity. It is the point that we have derived an orderly theoretical result such as deriving a relationship. It is also worth noting that Kepler was the first physicist to apply a “mathematical model” to physics.

Kepler struggles in his childhood. Kepler’s father participates in the battle as a mercenary for his family. While Kepler was between the ages of five and 17, his father lived away from his family. Kepler’s father died in the Netherlands in a battle called the Eighty Years War. In addition, Kepler himself suffered from smallpox and suffered from his poor eyesight for the rest of his life. Also in smallpox, Kepler loses his wife and children.

 Kepler’s Work

Kepler came across the heliocentric theory as an astronomer. Kepler learned astronomical, especially when Copernicus launched a Copernican Revolution, but Kepler fully supports Copernicus. Galileo Galilei now supports Kepler who read such an idea. And above all, Kepler meets Tycho Brahe.

It seems that there is an era in which science will evolve dramatically, but the era before and after Kepler is exactly such an era. It seems that the movement of this era was the reason why mechanics was born and electromagnetics was born in the thoughts of later times.

Even at the beginning of the 20th century, people from different countries discussed and made great progress in science and technology. If you think about “history of science” while glimpsing the aspect of “social history” from that perspective, you can feel the evolution of humankind. There is some debate about whether “change,” which I called “evolution,” is preferable, but I think it is preferable. Because the possibilities open up. Responsibility for controlling technology is discussed separately on a separate issue.

Kepler’s Data

Tycho Brahe left Kepler with the vast amount of data he collected in his will as his legacy. Kepler receives valuable and valuable data and organizes it to create various laws. From the achievements of the two, Kepler’s law that remains today was completed.

The movement of planets is systematically and geometrically represented. Kepler created a framework for thinking about stars. And he was connected to the following various theoretical systems.

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ジョルダーノ・ブルーノ
【宇宙の無限を説き異端審問を受けた殉職者】-5/8改訂

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ブルーノ著作集
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【出典Wikipedia:ジョルダーノ・ブルーノ:
1600年に異端審問で処刑された思想家」


【1548年生まれ ~ 1600年2月17日没】

ジョルダーノ・ブルーノは、イタリア生まれの哲学者であり、

ドミニコ会の修道士でもありました。ルネサンス期に活躍し、

後のガリレオ・ガリレイとほぼ同時代を生きた人物です。

純粋な科学者とは言えませんが、自然観の変遷という

視点から科学史の中で重要な位置を占めています。。

ブルーノの時代 

 

コペルニクスの時代から時が過ぎ、

教会の世界観は変化しています。

当時のヨーロッパの人々の世界観について

教会が支配的立場をとるのです。その中で、

現代の我々の視点からは当時人々の不合理さは

受け入れ難いです。最終的にはブルーノは

火炙りに処されてしまいます。宇宙は有限ではなく無限で、

地球や太陽も星の中の1つ、というブルーノの考えは

当時の社会的な価値観と合いませんでした。

この思想は当時の社会では神への冒涜と見なされ、ブルーノは

異端審問にかけられ、1600年にローマで火刑に処されました。

酷い話です。ブルーノは異端審問を受け、

広場で火あぶりになりました。 

ブルーノの信念

 

何よりも、ブルーノは

ドミニコ会の修道士でした。

「神の作りたもう世界は限り無い」

という信念をもっていて、

権威に立ち向かいつつも

彼なりに良心的な判断をして

考え方を構築していったのです。

 

数学的モデルで検証して欲しかった。

実験結果と照らして判断して欲しかった。

科学が得意な人々と議論して欲しかった。

私は勝手に、そう思います。ただし、ブルーノの思想は
数学的検証や観測に基づくものではなく、直観的・哲学的な
宇宙観として構築されたものでした。そのため、
後のガリレオのような実証科学とは異なる系譜に属しています。

名誉回復

 

最後に、ブルーノの名誉回復の話です。

20世紀末、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のもとでカトリック教会は

過去の過ちを再検討し、ブルーノの処刑を不当と認めました。

新しい発想を作り出したブルーノが再評価されたのです。

現在、ブルーノは思想と信念の自由を貫いた

“精神の殉教者”として評価されています。

関連する科学者の系譜

◀ 前の人物:ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)

▶ 次の人物:ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)


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(対応英訳)

Giordano Bruno is an Italian-born philosopher and Dominican monk. Bruno lives with the famous Galileo Galilei.

This paper discusses Bruno in the history of science from the perspective of nature.

 

Time has passed since the days of Copernicus, and the world view of the church has changed. The church takes a dominant position in the worldview of the European people at that time. Among them, the absurdity of people at that time is unacceptable from our modern point of view. Eventually Bruno will be burned at the stake. Bruno’s idea that the universe is not finite but infinite, and that the earth and the sun are one of the stars, did not fit the social values ​​of the time.

It seemed like an unpleasant idea at the time. And Bruno burns at the stake. It’s a terrible story.

Above all, Bruno was a Dominican monk.
He had his belief that “the world created by God is endless,” and he built his mindset while confronting authority and making his own conscientious decisions.

He wanted it to be verified with a mathematical model. He wanted him to judge in the light of the experimental results. He wanted to discuss with people who are good at science. I think so without permission.

Finally, the story of Bruno’s rehabilitation. In the 20th century, during the time of John Paul II, and the heretical judgment was revoked, saying that the execution was unjustified. Bruno, who created a new idea, was re-evaluated. Bruno is now regarded as a free-spirited line of duty death.

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ティコ・ブラーエ
【ケプラーを助手として独自の宇宙論(宇宙体系)を展開】‐5/7改訂

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【1546年12月14日生まれ ~ 1601年10月24日没】

ティコ・ブラーエの死
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【;Tycho Brahe‐1546年 ~】


【ティコ・ブラーエの肖像(精密観測で知られる天文学者)】

概説

ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe, 1546–1601)は16世紀
デンマークの貴族であり、天文学者として知られています。

しかしその活動は天文学にとどまらず、
作家・占星術師・錬金術師としても多彩でした。

このような“学問領域のあいまいさ”は、
当時の知識人に広く見られる特徴であり、
近代科学が確立する以前の知の姿をよく示しています。

当時は悪魔の存在や天啓が現実のものとして信じられ、
宗教と科学の境界もまだ明確ではありませんでした。

当時は、天体や自然現象に人格や意思を見出す世界観が
一般的であり、現代のように自然を完全に物理法則で説明する
という発想はまだ確立されていませんでした。
ティコの時代は、まさに神秘と理性がせめぎ合う過渡期でした。


ティコ・ブラーエの鼻

ティコ・ブラーエには、彼の人柄を象徴するような
有名な逸話があります。

若い頃、数学の優劢をめぐる口論の末に決闘を行い、
その際に鼻の一部を失ってしまいました。

それ以降、彼は金属製の付け鼻を身につけていた
と伝えられています。

(近年の研究では、金ではなく真鍮や銅の合金だった
可能性が高いとされています。)

この出来事は単なる奇譚にとどまらず、
ティコの人生観をも象徴しているといえます。

彼は一度決めた信念を曲げず、危険を顧みずに
真理を追い求めた人物でした。

その頑固さは後年、天動説を主張し続けた点にも通じます。


ブラーエの天文学的業績と思想

ティコ・ブラーエは、「地球が宇宙の中心にあり、
太陽は地球の周りを回っている」と考えました。

これはプトレマイオス以来の天動説を基盤とするモデルです。
一方で、彼は膨大な観測データをもとに理論を組み立てており、単なる信仰的立場からの主張ではありませんでした。

当時、人々は「もし地球が動いているなら、空の鳥は
西に流されるはずだ」というような直観的な理屈で
地動説を否定していました。

ティコ自身もこの考えに立ちながら、観測結果との
矛盾を少しでも解消しようと努力しました。

その過程で、彼は独自の「ティコ体系(Tychonic system)」
――地球を中心に、太陽がその周りを回り、他の惑星は
太陽を回るという中間的なモデル――を提案します。

そして、ティコは望遠鏡が発明される以前に、肉眼観測だけで
当時最高精度の天文データを記録したことで知られています。
加えて、この理論は天動説と地動説の折衷案であり、後に
ケプラーの理論に橋渡しする重要な役割を果たしました。

ティコはまた、コペルニクスの著書『天球の回転について』
を所蔵しており、詳細な書き込みを残していました。

当時この本は一般にはあまり売れていませんでしたが、学者のあいだでは密かに議論の的となっており、ティコもその一人だったのです。


ケプラーへの継承

ティコ・ブラーエの最大の功績は、膨大で精密な
天体観測データを後世に残したことにあります。

彼の死後、その弟子であるヨハネス・ケプラー
これらのデータを引き継ぎました。

ケプラーはその情報をもとに、「惑星は太陽のまわりを
楕円軌道で公転している」という画期的な法則を導き出します。

これが後にニュートンの万有引力の理論へとつながっていきました。

この流れを見ると、ティコ・ブラーエ自身の
宇宙モデルは誤っていたかもしれませんが、
彼の努力が科学の発展にとって決定的な礎を
築いたことは間違いありません。

彼のデータがなければ、ケプラーの法則も存在
しなかったでしょう。
つまり、ティコは
「間違いながらも進んだ科学者」だったのです。


まとめ

ティコ・ブラーエは、信念に忠実でありながら、
観測精度においては時代を超えた科学者でした。

宗教と科学が混在する時代に、彼は“天の秩序”を追い求め、やがてケプラーやニュートンへとつながる科学の道を切り開きました。
彼の生涯は、知識が直線的に進化するものではなく、誤りと修正の積み重ねの中で前進していくという、人間の探究の歴史そのものを象徴しています。

■前後リンク(天文学革命ライン)
◀ 前の人物:コペルニクス(1473年)
▶ 次の人物:ケプラー(1571年)

👉 理想の流れ:
理論 → 観測 → 法則化

■この分野の物理学者(観測革命)
■この分野の物理学者(天文学革命)
プトレマイオス(天動説)
コペルニクス(地動説)
・ティコ・ブラーエ(精密観測)
ケプラー(楕円軌道)
ニュートン(万有引力)

👉 科学史的にこの「5人ライン」は鉄板です!

 

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(対応英訳)

Tycho Brahe is a Danish aristocrat.
In addition to his versatile abilities and achievements in astronomy,
He was also active as a writer, astrologer, and alchemist.
Also, as a surprising episode, there is a story about “Tycho Brahe’s nose”.
The nose of Tycho Brahe has lost its bridge
due to a young duelSince then, Tycho has had a metal nose.

Tycho Brahe thought that the earth was at the center and the sun was rotating around the earth.

It is true that the movement of the sun can be explained as a relative positional relationship, but it was not an idea that was consistent with the database of various stars organized by later scholars.

In particular, there is a research report that Tycho Brahe possessed Copernicus’s book “On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books” and wrote it in detail. That is how Tycho Brahe used his knowledge at the time to make decisions as he continued his scientific approach.

But above all, the observation data of Tycho Brahe is
It was unmatched in accuracy. Kepler, who later took over the data, makes a Copernican revolution, and based on the data, he proposes a theory that the earth rotates around the sun.

Overall, Tycho Brahe’s idea was wrong, but it was a huge achievement in star observation.

Also, from the perspective of connecting the achievements of various people, the fact that the data left by Tycho Brahe was used later is very important. It’s true that there was something wrong, but Tycho Brahe was still pursuing,

Based on the data he left behind, later people argued and proceeded to understand the universe.

Rockets will fly closer to modern ideas, and knowledge will overlap, and they will continue to evolve.

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ゲオルク・レティクス_
【コペルニクスと天動説をまとめた】‐5/6改訂

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天体回転論
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【1514/2/16 ~ 1574/12/4】


【画像出典:Wikipedia】
レティクスの『Narratio Prima』は、地動説を初めて
体系的に紹介した出版物として知られています。

天文学のパイオニア・レティクス

その名はGeorge Joachim Rheticus または
Rhäticus, Rhetikus と記します。

(外国の方ですから正確にコピペしました。)天文学者レティクス
(本名 Georg Joachim Iserin、後に von Lauchen / Rheticus を名乗る)は、
1514年2月16日、オーストリアのフェルトキルヒ(Feldkirch)
で生まれました。 Encyclopedia Britannica+1
幼少期には父親の医学職、ラテン語学校での教育を経て、チューリッヒ(Zurich)
での学びののち、1533年からウィッテンベルク大学に進学し、1536年に
修士号を取得。その翌年 1537年にウィッテンベルクで数学と天文学の
教授職
に就任します。 mathshist

レティクスは 1539年から1541年 の間、ポーランドのフラウエンブルク(Frombork)で
コペルニクスと共に暮らし、その理論を直接学びました。
mathshistory.st-andrews.ac.uk+2Encyclopedia Britannica+2

その滞在中にレティクスは Narratio Prima(1540年)を執筆し、コペルニクスの地動説
(heliocentric model)を紹介する働きをします。これにより、
「De revolutionibus orbium coelestium」が出版されるきっかけを作った重要人物となりました。
mathshistory.st-andrews.ac.uk+2Encyclopedia Britannica+2

また、彼は三角法(trigonometry)の分野でも業績を残しており、
Opus Palatinum de Triangulis
という六つ全ての三角関数(正弦・余弦・正接など)
を用いた表を含む著作を準備しました。これは彼の晩年後、
彼の弟子によって 1596 年に出版されます。 Encyclopedia Britannica+2mathshistory.st-andrews.ac.uk+2

あえて他の道具を考えていくとすれば当時は数に
神秘的意味を見出す思想(数秘術など)も広く存在していました。
しかしレティクスは、そうした象徴的理解ではなく、観測と数学に基づく
天文学の体系化を志向した点に特徴があります。

数秘術とはユダヤ教の発展と共に伝わってきた
「カバラ」と呼ばれる数の体系です。キリスト教の
色々な逸話に基づき
数字一つ一つに意味を付けていきます。
13や7が比較的幸運な番号であるといった次第に
一つ一つの数字に意味が加わるのです。

数秘術としてカバラは占い師が受け継いでいる体系です。
中世には王家の意思決定などの時に(真面目に)「議論」
カバラの流儀で交わされて実際の祭り事が行われていました。

有名人ではミッシェル・ノストラダムスはフランス王家に仕え、
カバラの思想に基づき助言を与え地位を確立しています。
レティクスも何人かのパトロンのもとで研究を続けます。

レティクス時代の宗教と政治

また、当時の宗教は政治的にも力を持っていました。
特に中世以前はキリスト教の教えに従い
協会自治区が地方のあちらこちらにありました。

そうした経緯で、1096年から1303年にかけての期間には
聖地を確保するために十字軍が組織され、
大規模な軍事行動が行われました。

斯様な時代背景のもと、16世紀前半に
宗教改革をしたマルチン・ルター(1483- 1546)
によるコペルニクス(1473 – 1543)への批判が有名です。

宗教が科学に対する影響は大きいのです。ルターは
聖書の一節であるヨシュアによる

「日よとどまれ」(ヨシュア10:12~13)

という言葉に着目しています。

「地球が動いているのではなくて太陽が動いている」
という概念が聖書の中での世界観が天文学にも
適用される事が好ましい世の中だったのです。

実験と経験を重視して考える思考は
ルター思想の中では目立ちません。

ルターによれば千年以上前に著された
聖書の言葉が何より重いのです。

それだからルターはコペルニクス
考えを受け入れていないのです。

教会が権威を持ち堕落しているとの批判的な観点から
ルターは
神の言葉としての「聖書の文言」
を大事にする聖書絶対主義を掲げました。

キリスト教の中でもプロテスタントとカソリックが
天文学に対して異なる見解を示します。

科学に対してキリスト教が偏見を持っていた事情は1973年に
ヨハネ・パウロ二世が「ガリレオ裁判の過ち」を
公式に謝罪する事態に至ります。

レティクスとコペルニクス

精力的にレティクスはコペルニクスを支持し続けました。
時代背景にも関わらず、レティクスは地動説(コペルニクス説)
を積極的に支持し、その普及に尽力しました。。

コペルニクスの死後まもなく発刊された
「天球の回転について」

において地動説を形にします。

後世の天文学者が大事に使っていく概念を作り上げたのです。
いわゆる「コペルニクス的転回」が大部分の人に
理解されなかった時代に、
レティクスは理解と復旧を進めました。

■前後リンク(必須)

◀ 前の人物:コペルニクス(1473年)
▶ 次の人物:ケプラー(1571年)

👉 レティクスは「橋渡し役」なのです。

■この分野の物理学者(革命の流れと天文学革命)

プトレマイオス(天動説)
コペルニクス(地動説の提唱)
・レティクス(地動説の普及)
ケプラー(惑星運動の法則)
ガリレオ(観測による実証)

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(2022年10月時点での対応英訳)

Rheticus is an astronomer

I write down the name with George Joachim Rheticus or Rhäticus, Rhetikus.
(because he was foreign one, I copied and pasted it exactly.)
Rheticus is an astronomer born in Austria.

After having put the mathematical quality in felt Kirch, Zurich, Wittenberg, Rheticus begins to work as a professor in Wittenberg University in 1537. And, during two years after two years later, Rheticus lived with Copernicus. They affected each other.

The Newton dynamics was not there at that time, and there was no understanding about the electromagnetism, too. They must study Dynamics to be usable as preparations was astronomy and mathematics.

Era of Rheticus 

There was a system of the number called “The Cabala” that came with development of Judaism if I think about other learmings daringly. They add a meaning to one one number based on Christian various stories. They gave a meaning  to each gradually each number to be the number, that 13 and 7 are relatively lucky.

This thought is the system which a fortune-teller still inherits as a number secret art. They had done such a “discussion”  at the time of decision making of the royal family seriously in the Middle Ages, and every real festival was held.

Michelle, nostole dams served a French royal family in the famous people and Michelle gave advice based on Cabara and establish a position.
Rheticus continues studied it with some patrons, too.

On the oyher hand, the side that religion at the time had power politically was very strong. There was an association autonomous district in local many places according to Christian teaching before the Middle Ages in particular. They had organized Crusade to secure a “sacred place as process” in the times of the Crusade during a period from 1096 through 1303, and they had carried out a large-scale military campaign.

Rheticus and Religion

Copernicus criticism by Martin Luther who did the Reformation in the cause, the early 16th century of the background in such times has it pointed out. Religion has a big influence on science. By Jehosua who is one node of the Bible as for Luther “stay a day”, and pay the attention to the word (Jehosua 10:12 – 13).

It was the world where it was preferable for a view of the world in the Bible, “the earth did not move, and the sun moved” to be applied to astronomy. The thought to focus on an experiment and experience in the thought of Luther, and to think about is not founded. Words of the Bible written according to Luther more than 1,000 years ago are heavy Important above all.

Because it is it, Luther does not accept a thought of Copernicus. Luther raised the Bible aesthetic absolutism to take good care of “the words of the Bible” as words of God from a critical point of view that Chnrch was corrupted if they paid a church for too many authority.

In addition, Protestantism and a Roman Catholic show a different opinion for astronomy in Christianity.
that the circumstances that Christianity prejudiced against for science continue until John Paul II apologizes for “the mistake of the Galileo trial” formally in 1973

Rheticus continues supporting Copernicus without being concerned in the background in those days and pushes forward the Ptolemaic theory.

Rheticus made the Ptolemaic theory a form in “about the turn of the celestial sphere” published soon posthumously of Copernicus. Rheticus made up the concept that a later astronomer used carefully. In the times when so-called “Copernican change” was not understood by most people, Rheticus pushed forward understanding and restoration.

 

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コペルニクス
【レクティスと地動説を推進して世界観を転換】-5/5改訂

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哲学者たちの天球
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【1473年2月19日生まれ ~ 1543年5月24日没】


ニコラウス・コペルニクスの肖像画(地動説の提唱者)

コペルニクスの若き時代

コペルニクスは、『天球の回転について』は、近代科学の出発点とされる
「コペルニクス的転回」を象徴する著作です。王領プロイセンに属する都市トルン
(現在のポーランド)
で生まれました。この地域は当時ポーランド王国の支配下にありつつも、
ドイツ文化の影響も強く、彼はラテン語・ドイツ語・ポーランド語といった
複数の文化圏にまたがる環境で育ちました。近代的な国籍概念が成立する
以前の人物であるため、単純に一つの国民に分類することはできません。

15世紀になると、地中海沿岸で芽生えた科学の精神がヨーロッパ全土へと広がり、
天文学の議論も多方面で活発に行われるようになります。

プトレマイオスの時代からコペルニクスの登場までには、実に千数百年の歳月が
経過していました。その長い間に人々の世界観は固定化していましたが、
コペルニクスはそれを根底から覆したのです。まさに「世界観の転換」と呼ぶべき出来事でした。

生活の面から見ると、コペルニクスは天文学だけに専念する職業に就いていた
わけではありません。日々は教会に関わる行政や宗教的な仕事をこなしながら、
研究を続けていました。若い頃にはイタリアに2度留学し、ボローニャ大学と
パドヴァ大学でそれぞれ法律と医学を学んでいます。当時、長距離の留学は
大変な覚悟を要する冒険でもありました。こうした多面的な経験が、
後の彼の学問的視野を広げる基盤になったといえます。


コペルニクスの経済的な仕事

コペルニクスは、聖堂参事会の財産管理を担う立場にもありました。
その職務の中で、彼は貨幣の流通に関する洞察を示し、後に
「悪貨は良貨を駆逐する」と呼ばれる原理を初めて明確に言葉にしたとされています。

良質な貨幣は人々の手元に留まり、流通するのは価値の低い貨幣
ばかりになる――という現象を指摘したのです。

これは経済思想史の中でも早期の重要な発見として知られています。

このように、コペルニクスは単に天文学者ではなく、経済や社会制度にも関心を持ち、
幅広い分野で知識人としての活動を行っていました。一方で、当時の情勢は不安定でした。
ドイツ騎士団がポーランド王領プロイセン内のヴァルミア地方へ侵攻し、
宗教と政治の対立が激化していく中で、コペルニクスの生活も変化を余儀なくされていきました。


コペルニクスの宗教的側面

コペルニクスの宗教的な側面を見てみると、彼が常に教会の批判にさらされていた
わけではありません。むしろ、彼は教皇に自らの著書『天球の回転について』を
献呈しており、一定の信頼関係が築かれていたことがわかります。

ただし、その後ガリレオの時代になると、この書は一時的に閲覧禁止となりました。
また、宗教改革者マルティン・ルターは「コペルニクスの考えは聖書の教えに反する」
と公に批判しています。地動説はまさに、世界観と信仰を揺るがす議論だったのです。

コペルニクス以前の時代には、プトレマイオスの著書『アルマゲスト』が天文学の常識を支配していました。彼は「もし地球が動いているなら、空を飛ぶ鳥や雲は西に流されるはずだ」と主張し、地球は静止していると結論づけました。しかし、当時はまだ「慣性」の概念が確立されておらず、地球が動いても空気や鳥が共に動くという理解がなかったのです。
コペルニクスはこの「常識」を超えて、新しい理論体系を築こうとしました。


コペルニクスと学問の成熟

1539年、ヴィッテンベルク大学の教授ゲオルク・レティクスがコペルニクスを訪ねました。面会の中で地動説の構想を聞いたレティクスは深く感銘を受け、その思想を後世に伝える決意を固めます。二人の間には、師弟としての信頼関係が生まれました。

興味深いのは、コペルニクスが学問の体系を切り開く中で「天体と人体の関係」に注目していた点です。当時、天文学は医学の一部として扱われており、天体の運行と人間の健康や気質との関連が信じられていました。
コペルニクスは医学の学びを通じて、天体に関する知識があまりに不正確であることに気づいたのです。
その「欠落」に気づいたことこそが、彼を天文学へと向かわせた出発点でした。

天体の動きを地動説的に説明するには、天動説では解けない「つじつまの合わない現象」がいくつも存在していました。レティクスはコペルニクスの理論に確信を深め、著作としてまとめ出版するよう強く勧めます。これが『天球の回転について』執筆の直接の契機となりました。


『天球の回転について』の出版と最期

1539年、レティクスは自身の師ヨハネス・シェーナー宛てに長文の手紙を送り、その中にコペルニクス理論の要約を記しました。その写しはグダニスクの出版業者によって刊行され、翌年「最初の報告」として世に出ます。これに勇気づけられたコペルニクスは、レティクスと共に理論を体系化し、草稿を完成させました。
2年後、『天球の回転について』の印刷が始まりますが、レティクスはライプツィヒ大学に転任するため
執筆の場を離れ、代わりに神学者アンドレアス・オジアンダーが校正を引き継ぎました。

しかしその間にコペルニクスは脳卒中を患い、半身不随となってしまいます。
完成した製本版を手にすることはできませんでしたが、伝えられるところによれば、
彼が息を引き取るその日に原稿の一部が届けられ、手に取ったまま静かに世を去ったといわれています。

享年70歳――彼の死とともに、地動説という新しい宇宙観が世界に姿を現したのです。

■前後リンク(天文学革命ライン)

◀ 前の人物:プトレマイオス(100年頃)
▶ 次の人物:ケプラー(1571年)

👉 完璧な流れ:
天動説 → 地動説 → 数式化

■この分野の物理学者(宇宙観の進化)

ピタゴラス(数と宇宙)
プトレマイオス(天動説)
コペルニクス(地動説)
ケプラー(楕円軌道)
ガリレオ(観測革命)

〆最後に〆

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対応英訳

 Copernicus was born in  Poland

Copernicus was born in what is now Poland, which was part of the Royal Prussia. Especially in the era of nationalism until World War II, it was said that the people born there were Germans, but today they are often called German Poles. Copernicus did not engage in astronomy-focused work as his profession. As for his daily work, he seems to have done various jobs associated with the mission of religion. Copernicus went to Italy twice when he was young and studied law and medicine at the University of Bologna and the University of Padua, respectively.

As one of those jobs, Copernicus managed the property of the Chapter Chapter, and in that job he used the concept of “bad money drives out good money” for the first time.

Good quality money is left in the hands of each person, and the money in circulation becomes poor quality. This is a discussion related to the quality of banknotes in circulation. The fact that he was also involved in such social activities is noteworthy. The life of Copernicus changes as the Teutonic Order invades Warmia in Polish Royal Prussia.

Another aspect of Copernicus 

Commenting on that aspect of Copernicus’s life, it seems that Copernicus was not always criticized by the church. There is also the fact that Copernicus himself dedicates a book entitled “On the Revolutions of the Heavenly Spheres by Nicolaus Copernicus of Torin 6 Books” to the Pope, and a certain good relationship with the church side can be seen.

On the other hand, in Galileo’s time, measures were taken to prevent the book from being read, and prominent Luther criticized it. It was an argument that drastically changed the world view of many times.

Separately, Ptolemy’s argument, which advocates the heliocentric theory, is also proceeding with discussions based on the scientific knowledge of the time, but the concept of “inertia”, which had not yet been established, must have been necessary for the theory. It was later discussed in the history of science.

Now, in 1539, Georg Joachim Reticus, a professor at the University of Wittenberg, asked Copernicus, where he was convinced that Copernicus explained the idea of ​​the heliocentric theory, and would like to inherit and develop that idea. It came to be. The teacher-apprentice relationship between Copernicus and Retics begins.

What I was interested in investigating such a story is the way Copernicus establishes his research area. At that time, the academic field of astronomy was not clear,

Many aspect of Copermolcus

While studying medicine, Copernicus focused on the relationship between celestial bodies and the human body, which was included in the academic system of medicine, and realized that he lacked knowledge of celestial bodies, which is the basic field at that time. At first glance, for us now, the movement of celestial bodies seems to be related to humans only for the moon.

There is a part that is not surprising even in the circumstances that go extremely far there.

Also, the knowledge of astronomical science at that time must have been insufficient. The understanding system based on the so-called “Geocentric theory” must have encountered a situation that “doesn’t make sense”.

In such a dialogue with nature, Retics rapidly absorbs Copernicus’s theory and advises Copernicus to publish it for the dissemination of the theoretical system. .. In response to such a story, Copernicus decided to put together his own theory. In 1539 Retics sent a long letter to his own astronomy teacher, Johannes Schöner.

Last ofCopermocus 

The letter contains an excerpt of Copernicus’s theory. Retics brought a copy to a Gdansk publisher and published it as the “first report” the following year. So Copernicus worked with Retics. Two years later, the draft of “On the Revolutions of the Heavenly Spheres” was completed and printed.

With the appointment of Retics as a professor of mathematics at Leipzig University, the theologian Andreas Oziander, appointed by Retics, will continue to proofread.

However, in the meantime, Copernicus suffered a stroke and became paralyzed and could not read the completed bound manuscript. There is an anecdote that the final printed matter arrived at Copernicus on the day he died.
At that time, He was 70 years old.

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クラウディオス・プトレマイオス
【三角法を考案し天動説の体系を考案】‐5/4改訂

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アルマゲスト
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【_83年頃 – 168年頃】

File_Ptolemy_1476_with_armillary_sphere_model (1)

MuseumPlus 5.1.681 Access 2010

【Photo:WikipediaCommons‗Ptolemy manuscript】

アルマゲストの著者プトレマイオス

(ラテン語表記: Claudius Ptolemæus)

天動説を強力に展開した書籍である「アルマゲスト」を
著したプトレマイオスは古代ギリシア世界の天文学者であり、
後の天文学の基礎を築いた人物です。

古代ギリシャ語では Κλαύδιος Πτολεμαῖος, と表記されます。
プトレマイオス後、中世のケプラーやガリレオの
登場する時代まで
プトレマイオスの学説は広く支持され
その後の神学の理論的な基礎にもなっていきます。

天動説は地球が世界の中心近辺にあり、太陽や月は地球の周りを
ほぼ円形上の軌跡をたどって移動しているという理論です。
今回取り上げているプトレマイオスは(自著の)アルマゲストで
天動説の理論的な枠組みを作り上げ
当時の
当時の観測精度に基づいて、星や惑星の位置を数学的に
説明できる天文体系を作り上げたのです。

また、プトレマイオスの体系の特徴は、
「周転円」と呼ばれる補助円を用いて、

惑星の複雑な動きを説明した点にあります。

これは一見複雑ですが、当時の観測結果を非常に高い精度で
再現できる
優れた計算モデルでもありました。

中世における天文学の進展

その後、多くの観測がなされ、
中世に至って「ティコ・ブラーェ」
等の観測データを
ケプラーが体系立てるまでは主に天動説が正しいと

思想の世界では一般に信じられていました。

ここで、私たちが普段「天文学」という言葉から
何を思い浮かべるのか、少し立ち止まって考えてみます。
天文学は慣れ親しんだ夜空を表し、非常に分かりやすいです。
ところが、その内容を考えていくと内容は理解してません。

特に定量的な点を考えてみると観測にかかるのは、
この時代は星の位置だけです。色と温度の関係も
分かりませんし、量子力学の背景が無いので
内部の推定も出来ません。 

多くの人は中学生くらいの時期に天文学を教養として
勉強しますが
大抵はほとんど忘れます。
特に定量的な表現は忘れます。

太陽の質量がどのくらいであるとか、
地球との距離がどのていどあるか

などの値を正確に言える人がどのくらいいるでしょうか。
1000人に一人もいないと思います。試験前に勉強して
後に忘れて、忘れたことは気にしません。
大事ではないのです。

それだから、

当時の観測精度においては、天動説は非常に高い説明力を持っており、
実用的な天文計算において広く用いられていました。

しかし後の時代に、より精密な観測と理論が発展するにつれて、
天動説は複雑な補正(周転円など)を必要とするようになり、
最終的には地動説へと置き換えられていきます。

この流れは、「より単純で精度の高い理論が選ばれる」
という科学の発展過程そのものを示しています。

プトレマイオスの業績

プトレマイオスの作り上げた三角法は重要です。
三角関数表作成とともに発展してきました。
三角法は今の三角関数の起源となっています。

プトレマイオスの三角法は、円の中に引かれた弦の長さと角度との
関係を数学的に整理したものでした。これは現在の
三角関数(サインやコサイン)の起源にあたります。
}もともと星の位置を正確に求めるための理論でしたが、今日では
建築や機械設計、測量など、現実世界のあらゆる分野で応用されています。

現在使われている三角関数が角度と弦の長さを使っている
関係の基本となっているので三角法は重要です。

現代では建築現場の角度計算や、航空機の設計、さらには
CG制作やAI画像解析にも三角関数が使われています。
古代の理論が今も生き続けているのです。

プトレマイオスの業績は、誤りを含みながらも、
「観測を数理で説明する」という科学の基本姿勢を確立した点で、
現代科学へと続く重要な礎となりました。。

■前後リンク(天文学の進化)
◀ 前の人物:アルキメデス
(天動説の数学的・哲学的基盤)

▶ 次の人物:コペルニクス
(地動説の提唱)

👉 哲学 → 数理 → 革命

■この分野の物理学者(強い導線)
■天文学・宇宙観の系譜

アルキメデス(天動説の数学的基盤)
プトレマイオス(天動説の完成)
コペルニクス(地動説)
ガリレオ(観測革命)
ケプラー(軌道法則)
ニュートン(万有引力)

〆最後に〆

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(2022/10月時点での対応英訳)

Author Ptolemy of the almagest

The Ptolemy who wrote “Almagest” which is the book which presented the Ptolemaic theory strongly is transcribed into ΚλαύδιοςΠτολεμαῖος by the Ancient Greek in astronomers (father) of the ancient Greece.
The theory of Ptolemy is supported widely until the times when Kepler and Galileo of the Middle Ages appear, and it is in the later theological theoretical basics afterwards.

The Ptolemaic theory has earth in the world central neighborhood and is a theory that the sun and the moon almost trace the trace in the circle around the earth and move.
Ptolemy built up a theoretical frame of Copernican theory in almagest and built up a correct astronomy system of the consistency at an observation level at the time.

Astronomical progress in the Middle Ages

Much observation was accomplished and were able to believe observation data such as “Tycho ブラーェ” generally afterwards in the world of the thought to the Middle Ages until Kepler put up a system if the Ptolemaic theory was right mainly.

I think about how general people are thinking about “astronomy” here.
The astronomy expresses the night sky where I got used to and is very plain.

However, most of the contents do not understand it when they think about the contents.
Many people study astronomy as culture at the time of a junior high student, but almost usually forget it. I forget the particularly quantitative expression.
How much will the person whom mass can say a value which degree distance with the earth has how long to exactly with sun be?
I think that there is no it in 1,000 people. I study before an examination and I forget it afterwards and do not mind that I forgot it. It is not important.

Because it is it, the detailed thing does not matter, and even the Ptolemaic theory is the Copernican theory, but thinks that both are enough. Either is explicable.

Achievements of Ptolemy

In addition, the trigonometry that Ptolemy made up is important.
It developed with trigonometric function tabulation.
The trigonometry is the origin of the present trigonometric function.

The trigonometry uses the relations of the length of the string and the length of the arc.
The trigonometry is important now as it is the basics of the relations that a used trigonometric function uses an angle and the length of the string for.

I use many it in the building site. The trigonometric function is required by the design of a car and the plane.

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アルキメデス
【兵器を発案し円周率を推定(幾何学的考察)した多彩な人】-5/3改訂

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天秤の魔術師
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【Photo:Wikipedia:Greek philosopher Archimedes in his bath – 16th Century carving.】
【紀元前287年頃 ~ 紀元前212年】

多彩な人であったアルキメデス

【英:Archimedes・希: Ἀρχιμήδης】
アルキメデスは、古代ギリシアの数学者で、物理学者で、
技術者で、発明家で、天文学者です。
古代においてのトップクラスの科学者といえます。
鉤爪の兵器や光線の兵器を発案する一方で、
多角形をつきつめて
円周率を推定していたりしました。

円周率の概念を確立

具体的にはアルキメデスは、円の面積を正確に求めるために、
円の内側と外側に多角形を配置する方法を考えました。例えば、円の内側に正六角形を描くと、
その面積は必ず円より小さくなります。
逆に、円の外側に正六角形を描けば、
その面積は円より大きくなります。このように「内側の多角形」と「外側の多角形」で
円を挟み込むことで、円周率πの値を
徐々に絞り込むことができるのです。アルキメデスは最終的に96角形まで
拡張し、
πが「3より大きく、約3.14より小さい」ことを導きました。これは、極限の考え方に通じる極めて先進的な手法でした。 
六角形と五角形で考えていけばπの精度は更に向上。 
最初に思いついたアルキメデスは偉い!
という話なのです。 
浮力の概念の確立

そもそも当時、王冠の加工で疑惑が生じていました。混ぜ物をした疑惑で
金細工の職人が疑われました。理論で白黒つけようとなりました。そこで出てきた
アルキメデスが実験で立証したのです。「王冠と同じ質量の金塊を用意し、
これと王冠を天秤棒に吊るしてバランスが取れることを確認した後に、
天秤棒に吊るしたまま両方とも水を張った容器に入れました。」
今の問題は金の密度です。
混ぜ物があれば密度が変わる。空気中では天秤棒は、てこの原理によりバランスが
保たれています。てこの原理は水中でも変わらないので、もし金塊の体積と王冠の
体積が同じであれば、つまり金塊の密度と王冠の密度が同じであれば、
両方を水中に沈めても、天秤棒のバランスは保たれるはずである。
結果は水に入れたらバランスが崩れたのです。

王冠と金塊の密度が違います。
金細工師は不正を働いていました。
誰が見ても明らかです。同時に
アルキメデスはこうした立証の中で
浮力の原理を明確にしました。

金細工師は死刑になったと伝えられるています。

アルキメデスは古代ローマと同時代に生きた人で、
彼の人生の詳細は、死後ずっと後の歴史家たちが断片的な
記録をもとに再構成したものです。
そのため、
事実と伝説が入り混じっている部分もありますが、
それほどまでに
後世の人々が彼を尊敬し、語り継ごうとした証でもあります。
歴史上の人物は誰しも記録に頼る
部分があるのですがアルキメデス
の場合は特に死後何百年経ってから
編纂されたとされており、それ故に
不確かな部分が多いです。何より
アルキメデスは多くの仕事を残しました。

アルキメデスの評価

アルキメデスの友人や弟子たちが彼の伝記を残していなかったため、
彼の人生で唯一、確実に記録されているのは、戦場での最後の瞬間だけです。
しかしその一場面が、彼という人の「真剣な探求心」を象徴しています。
アルキメデスがローマ軍の
シラクサ攻囲戦で死んだことが、
彼の死に関する故事の記述から
正確に判明しているのです。
例えば、アルキメデスの生年は、
死んだ日時の年齢から逆算して
「推定」されています。
アルキメデスの関心は「美しい理論の構築」にありました。
純粋に数学的な論理体系を追求する姿勢がありつつも、
その理論が現実の技術や装置に応用できる点でも卓越していました。
つまり、理論と実践のどちらにも価値を見出し、
“考える科学”と“使う科学”を両立させた最初期の人物だったのです。
具体的にアルキメデスの原理とは、
「水や空気といった流体の中にある物体には、
押しのけた分だけ上向きの力が働く」
という発見です。
当時は“圧力”という概念がまだ存在していませんでしたが、
アルキメデスは、理論的な思考だけで“目に見えない力”の
存在を導き出しました。対象が占めている空間が、
まわりの流体に与える反作用を考え、それを
「浮力」として説明したのです。
観察と論理の両面から法則を見抜いた点が、
彼の真骨頂といえます。
定式化された形としては、
「流体(液体や気体)中の物体は、対象となる物体が
【押しのけている流体の重量】と同じ大きさで
(ベクトル的に)逆向きの浮力を受ける」
という原理です。このような「自然を数と理論で説明する」という姿勢は、
後のニュートンへと受け継がれていきます。他、円周率や数列で

アルキメデスは仕事を残しています。

アルキメデス最後の逸話

話戻って、アルキメデスの亡くなる時のお話です。
その評判を知っていた指揮官・マルケッルスは、
アルキメデスには危害を加えないよう指示しました。
彼の家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは
砂盤(今でいえばノートの役割)に描いた図(円形)
の上で、何か考えこんでいました。
入り込んだ部屋がアルキメデスの部屋だとは理解していない
ローマ兵が名前を聞きましたが、没頭していたアルキメデス
は無視し、そのことに兵は腹を立てアルキメデスを殺したのです。
アルキメデス最期の言葉は
「私の円をこわすな!」(Noli turbare circulos meos!)
だったと言われています。そのローマ人は命令に反し、
アルキメデスを殺害してしまったのです。

そして、後にアルキメデスを殺害してしまった事を
とても遺憾に思い、苦慮したと言われています。

そんなアルキメデスは、理論と実験を結びつけることで、
自然法則を“理解できるもの”へと変えた最初期の科学者でした。。

■前後リンク(数学→物理への流れ)

◀ 前の人物:
ピタゴラス(数による世界理解)

▶ 次の人物:
ガリレオ・ガリレイ(実験科学の確立)

👉 流れ:数 → 幾何 → 実験科学

■この分野の物理学者
■古典力学・数学物理の系譜

ピタゴラス(数の思想)
・アルキメデス(幾何と力学)
ガリレオ(実験科学)
ニュートン(古典力学の完成)

👉

 

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【2022年1月時点での対応英訳】

[English: Archimedes / Greeks: Ἀρχιμήδης]
Archimedes is an ancient Greek mathematician, physicist, engineer, inventor, and astronomer. He is one of the top scientists in classical antiquity. He devised claw weapons and ray weapons, and used polygons to estimate pi.

Archimedes was a person who lived in ancient Roman times, and his life was estimated based on records by historians of the later world after Archimedes died.

Every historical figure relies on records, but Archimedes is said to have been compiled hundreds of years after his death, so there are many uncertainties. Above all, Archimedes left a lot of work.

Archimedes’ friends and others have not left the biography,

and only the last moment supported by the war record is known exactly.

Archimedes died in the Roman siege of Syracuse, exactly as the story of his death reveals.

For example, Archimedes’ year of birth is “estimated” by back-calculating from the age of his death.

Archimedes’s interest is in the construction of a logical system based on a pure theoretical structure based on aesthetics, and the practical aspect is remarkable.

Specifically, what is Archimedes’ principle?
It is a law in fluid mechanics discovered by Archimedes.
Before discovering the parameter of pressure
He took advantage of the one-sided effect of pressure.
The part where there was an object to think logically
He considered the force exerted by space as buoyancy.

As a formalized form,
“An object in a fluid (liquid or gas) is a target object.
With the same size as [the weight of the fluid being pushed away]
Receives buoyancy in the opposite direction (vectorly) ”
Is the principle. In addition, in pi and sequence
Archimedes is leaving work.

Returning to the story, it is the story of Archimedes’ death.
Marcus, a soldier who knew his reputation,
He ordered to his stuff as Archimedes not to harmed !
When Roman soldiers entered his house, Archimedes
Figure (circular) drawn on the sandboard (the role of a notebook now)
On top of that, Archimedes was thinking about something.
The Roman doesn’t understand that the room he entered is

Archimedes’ room.

Roman soldiers heard the name, but Archimedes was absorbed
Ignored, and the soldiers got angry and killed Archimedes.

Archimedes’ last words
“Don’t break my circle!” (Noli turbare circulos meos!)

It is said that it was. Military personnel violate orders, about Archimedes.
He is said to have suffered because he was very regrettable to had  killed Archimedes.

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ギリシア哲学史
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【Democritus painting public domain】

【BC460年頃 ~ BC370年頃】

 原子論の始まり

デモクリトスは、古代ギリシアの哲学者です。苗字と名前がありそうだから調べてみたら
見つかりません。この時代には未だ無いのかも知れません。何よりデモクリトスは
初期の原子論を明確に示した人です。

デモクリトスはレウキッポスを師匠として考察を始め、その理論を確立しました。
ベルシャの僧侶やエジプトの神官に学び、果てはインドやエチオピアまで出かけて
見聞を広めたそうです。そんな活動的な人生を歩んでいて、仕舞いには生活に
困るようになってしまい、最後は故郷のご兄弟に扶養の世話になっていたそうです。
ただ死後はデモクリトスの著作物の公開朗読によって多額の贈与を受け
国葬されたと伝えられています。こうした話を聞くと人徳について考えてしまいますね。
デモクリトスはまさに「人が語り継ぎたい」と考えるような立派な人
だったのです。隣人にそう思わせる人柄だったのです。

デモクリトスと統計的総合作用

 デモクリトスは、世界を「見えるもの」ではなく「小さな粒(原子)」の集まり
として理解しようとしました。つまり、あらゆる物体を小さな単位の集合
として捉えるという考え方――後の統計的な思考の“原点”を作ったのです。
これは、世界を数や比率で説明しようとする最初の試みとも言えます。
ハイゼンベルグはその著書「現代物理学の自然像」(1955)において指摘しています。
「デモクリトスは次の命題を立てている。『甘いもの、または酸っぱいものは
ただ見かけだけであり、色はただ見かけだけであり、
実際にはただ原子と空間があるだけである。』 」

デモクリトスは統計的手法そのものを持っていたわけではありません。
しかし、「世界は多数の微小な粒子の集まりとして理解できる」
という発想は、後の統計力学へとつながる重要な視点でした。

すなわち彼は、「個々の粒子の集まりが全体の性質を決める」
という考え方の原型を提示した人物と見ることができます。

たとえば、私たちが「甘い」と感じる味覚も、ハイゼンベルクの理解では
“原子の動きと配置の組み合わせ”で説明されるものです。
つまり、
感覚や色、音の違いさえも、原子と空間の配置という
「統計的な構造」が作り出しているのです。

そして、デモクリトスの命題を解決するための
「原子と空間の新しい理論」をハイゼンベルグは全力で模索したのです。
食物は、燃やしてしまえば匂いも舐めた味もほぼ均一化されるのです。
人間生活の上で大事なものは対象物の、①特定時間での統計的法則性であり
また、観測する(または過去の事象の場合はパラメターを採取する)②タイミング
なのです。統計的な手法によって、私たちは「現実を最もよく説明する近似値
(=統計の解)」を求めることができます。そして、その解が本当に最適かどうかを
比較・検証するという科学の方法論が、ここから始まっていったのです。

また、上記①、②と最適解の判断が、会話の中で出来ていない人は
残念な人として扱われてしまいます。皆さん、少しでも良い議論を交わして下さい。

デモクリトスは哲学、詩学、倫理学、数学、天文学、音楽、生物学などで博識を示し、「知恵 (Sophia)」の異名を受けていました。私の視点では(物理学の観点から)原子論を創り出した点が特に重要です。

物質根源への定性的アプローチ 

物質の根元についての学説は、(後の)アリストテレスが完成させた四大元素(火・空気・水・土)が別途あって、時代ごとに原子論か四代元素かのどちらかが主流となって人々は根源物質を考えていました。デモクリトス以後、原子論は長らく反主流でしたが、ジョン・ドルトンの時代に彼によって優勢となりました。

【ドルトン以降の原子論は、デモクリトスの説と全く同じではありません。】ドルトンの時代には対象原子の質量やサイズに関する議論は無かったようですが、物質の根源物質を原子として考えて、元素の種類があると考えたのです。

現代では、原子は核反応によって別の元素に変わることもわかっています。しかし、日常生活で目にするあらゆる物質が、共通する最小単位「元素」の組み合わせでできている――この考えの原型を、デモクリトスはすでに語っていたのです。


化学的手段が無い時代に、こうした基礎知見を
確立できたのは驚くべき考察力です。

デモクリトスの洞察は、後の科学の根幹そのものに息づいています。
現代の量子物理学や統計力学も、実は彼の「原子と空間」
という発想を出発点にしているのです。いまもその知恵は、
私たちの科学的な思考の奥に静かに流れ続けています。

■前後リンク(古代→近代)

◀ 前の人物:
ピタゴラス(数による世界理解の始まり)

▶ 次の人物:
ドルトン(原子論の科学的復活)

■原子論・統計物理の系譜

モクリトス(原子概念)
ジョン・ドルトン(近代原子論)
ルートヴィッヒ・ボルツマン(統計力学)
ジェームズ・クラーク・マクスウェル(分布則)
ヴェルナー・ハイゼンベルク(量子論)

 

〆最後に〆



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The beginning of atomism

Democritus is an ancient Greek philosopher. I can’t find it when I look it up because his last name and name are likely to be there. It may not be there yet in this era. Above all, Democritus is a person who clearly showed the early atomism.

Democritus established the theory with Leucippus as his mentor. He learned from Bersha monks and Egyptian priests, and eventually went to India and Ethiopia to spread his sights. He was living such an active life, and his disposition made him difficult to live, and in the end he was taken care of by his brothers in his hometown. However, after his death, it is reported that he was given a large gift and was state funeral by public reading of Demox’s work.

Democrates has shown knowledge in philosophy, poetry, ethics, mathematics, astronomy, music, biology, etc., and has been nicknamed “Sophia”. From my point of view, it is especially important that I created atomism (from a physics point of view).

Qualitative approach to material origin

The theory about the roots of matter has four major elements (fire, air, water, and soil) completed by (later) Aristotelis, and either atomism or the fourth element is the mainstream for each era. People were thinking about the source material. Atomism has long been anti-mainstream since Democrates, but was dominated by him during the time of John Dalton. [Atomism after Dalton is not exactly the same as Democritus’s theory. ] It seems that there was no discussion about the mass and size of the target atom, but I thought that the source substance of the substance was considered as an atom and that there were different types of elements. In reality, atoms change due to nuclear reactions, but Democrates argued that substances that support daily life can be expressed using the smallest unit called “elements.” It is a surprising record that we were able to establish such basic knowledge in an era when there was no chemical means. The insights derived by Democrates contributed significantly to the later development of physics. Knowledge is being deepened steadily even now.

〆Finally〆

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こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)v

ピタゴラスの定理100の証明法
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【BC582 ~ BC496】


【出典:Wikipedia:ローマカピトリーノ美術館にある
サモス島出身のピタゴラスの胸像】

謎に包まれたピタゴラスの人生

ピタゴラスは古代ギリシャの数学者です。

皆さんもピタゴラスの定理(三平方の定理)

という言葉は聞いた事があると思います。

初等幾何学で出てくる話で、色々と応用が効きます。

同じギリシャのデモクラテスは朗らかなイメージ
なのに対し、ピタゴラスのイメージは暗く
謎に包まれています。現在のトルコ西部にあたる
サモス島周辺で生まれたとされています。そして、

その後は現代に余り情報が残っていません。そもそもピタゴラスが
組織したと言われた教団は秘密主義を徹底して、組織内の話を外部に漏らす
ことを厳しく禁じました。実際に秘密結社ですから掟に背いた時は罰を受け、
海に突き落とされたとも言われています。

何度聞いても残酷な話しみたいで、その時代の人は泳げなかったから
死刑に相当しました。ピタゴラス教団の強い秘密主義のため
内部の教義や活動内容は外部にほとんど伝えられていません。
そのため、掟に背いた場合の厳しい処罰があったとする他の記述も残されて
いますが、
具体的な内容については後世の伝承による部分が多く、
史実としては慎重に扱う必要があります。

斯様な(かような)秘密主義の教団
だったので、ピタゴラスの肖像画も見れませんし、遺稿も無いそうです。

我々がピタゴラスの人物像を垣間見れるのは2次情報で、教団との
関わりが無くなってきた御弟子さんの話とか著作物なのです。
そうした2次情報によると、ピタゴラスの若い時代にはエジプトや
インドを旅したりしていて、幾何学、天文学、算術、比率、宗教密儀、
ゾロアスター教などに関わりピタゴラスは知識を深めました。

 ピタゴラスの独自性

ピタゴラスの考え方で特徴的なのは、「あらゆる事象には数的な秩序が内在
している」と考えた点です。つまり、音の高さ、星の運行、人間の体のバランス
といった自然現象の背後には共通する数の法則があるという発想です。

例えば身近な所では「血圧が高いから塩分控えないといけないねぇ。」
といった会話が出来ているのは有益です。昔の人には分からない会話です。
「定量的に物事を理解・整理してみよう。」という発想は凄いのです。 

確かに後の理解で整理すると、その時々に万物には質量があり、
「固体・気体・液体」といった状態があり、空間上で占めている体積があって、
その時の温度があります。

その後の学者たちは、長さ・重さ・時間・温度などを数で表し、自然現象の
法則を定式化していくことになります。ピタゴラスは、そうした
「現象を数値で表す」という科学の基礎的な視点を最初に提示した
人物の一人と言えるでしょう。そうした議論の土壌をピタゴラス
は作り始めたと言えます。これは、人間が世界を「感覚」ではなく
「数量」で理解しようとした最初の一歩であり、後の科学や哲学の
発展にとって非常に大きな進歩でした。なお、
「ピタゴラスの定理」自体は彼以前の文明でも知られていた可能性があり、
ピタゴラス学派によって体系化されたと考えられています。

 

特に音楽では、弦の長さの比が音程の違いを生むことを実験的に示し、
「数で美や調和を説明できる」という画期的な考えを提示しました。
これは後の天文学や物理学にもつながる発想でした。

ピタゴラス学派の活動と顛末

エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率の知識を得て、
ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれています。そうした修行・研修
の時期を過ごした後にピタゴラスはイタリア半島を拠点とし活動しています。

色々な人々をピタゴラスは言動で惹き付け、やがては沢山の弟子を集めピタゴラス学派(ピタゴラス教団)と呼ばれる団体を組織します。この組織にはいつしかパトロンが出来たりした時期もあったのですが、組織に対抗する人も出てきたりして、最終的には暴動が起きてしまいピタゴラスも殺されてしまったようです。物凄く価値のある定式化を行った人があっけない最期を遂げています。ピタゴラスは輪廻転生を考えて菜食主義で健全な体を作ろうと努力したそうです。しかし人徳のない最期を遂げているのです。暴力反対。

〆最後に〆

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The mysterious life of Pythagoras

Pythagoras is an ancient Greek mathematician. I think you have heard the term ”Pythagorean theorem” (three squares theorem). It is a story that comes out in elementary geometry, and it can be applied in various ways. The same Greek Democrates has a cheerful image, while the image of Pythagoras is dark and mysterious. They said Pythagoras to have been born around Turkey. and,

After that, there is not much information left in modern times. The sect, which they said to have been organized by Pythagoras in the first place, strictly prohibited the leakage of stories within the organization to the outside. Since it is actually a secret society, he was punished when he violated the rules and had pushed into the sea.

No matter how many times I heard it, it seemed  for me like a cruel story, and people of that era couldn’t swim, so it was equivalent to the death penalty. If a believer who happened to be a fisherman had been floating, they would have stabbed  with a stick from the ship. Since it was such a secretive cult, we could not see the portrait of Pythagoras, and there was no manuscript.

For the Pythagoras’s era is extreemly old. What we can get a glimpse of is the story and copyrighted work of the disciple who has lost his connection with the cult in the secondary information. According to such secondary information, Pythagoras traveled to Egypt and India when he was young, and he deepened his knowledge about geometry, astronomy, arithmetic, ratios, religious esoterics, Zoroastrianism, and so on.

Uniqueness of Pythagoras

A characteristic of Pythagoras’s thinking was the advocacy of the objective fact that “every event has a number inherent in it.” Certainly, if we summarize it later, there is a mass in everything at that time, there is a state such as “solid / gas / liquid”, there is a volume occupied in space, and there is a temperature at that time.

Using these various parameters, later scholars will systematize and systematize their relationships, but that is a later story. Pythagoras created the ground for such discussions. I think it was a huge step forward. Pythagoras has shown that he also plays a number of major roles in the world of music and astronomical.

Activities and consequences of the Pythagorean school

Pythagpras had said to have studied geometry and religious esoterics in Egypt, gained knowledge of arithmetic and proportions in Phoenicia, and studied under a Zoroastrian priest.

After spending such training and training, Pythagpras had based in the Italian Peninsula. Pythagoras had attracted various people with words and deeds, and eventually gathers many disciples and organizes an organization They called the Pythagorean School (Pythagorean Church). There was a time when a patron had formed in this organization, but some people opposed the organization, and they said that Pythagoras was eventually rioted and killed.

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100年を迎える東京大学地震研究所(ERI)が築いた地震学とこれからのAI時代

東大

本記事は11/9付の日本経済新聞を起点に記載しています。東京大学地震研究所(ERI)は2025年11月13日で設立から100年を迎えます。1925年の設立以来、関東大震災を教訓に地震予知・観測体制を築き、日本が世界の地震研究を牽引してきました。英国人ジョン・ミルン(JohnMilne)による水平振子式地震計の開発、大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らによる地震モーメントやマグニチュード理論の確立など、その歩みは日本科学史の一大軌跡といえます。本稿では、①地震研究100年の歴史、②技術革新、③AI時代の展望という三つの章で構成し、制度と技術の系譜をたどります。


第1章:100年の歴史に刻まれた制度と人

関東大震災(1923年9月1日)を契機に、地震観測と耐震研究を体系化する必要性が高まり、1925年に東京大学地震研究所が誕生しました。以来、ERIは観測網の整備、地震計の改良、断層運動理論の発展を通じて、国際的研究機関としての地位を築きました。

1.1 設立背景と制度整備

震災後、国の学術政策と建築基準が一体化し、地震学の社会的使命が明確化。地震予知研究、気象庁・大学・国立研究所の分業体制が整いました。

1.2 ジョン・ミルン来日から地震学基盤の構築

1876年、英国から招聘されたジョン・ミルンが来日し、世界初の近代的地震観測体制を整備。1880年の横浜地震観測を皮切りに、地震波形記録・震央推定などの方法論を導入しました。

1.3 大森房吉・丸山卓男・津村健四郎らの技術革新

大森房吉(1868–1923)は「地震学の父」と呼ばれ、震源距離と時間差の関係式を導出。丸山卓男(東大地震研)は地震モーメントの理論化で国際的評価を確立。津村健四郎は地震継続時間を基にマグニチュード推定式を改良しました。

【地震研究の主要年表】

出来事関連人物・機関
1876年ジョン・ミルン来日、地震観測開始東京帝国大学
1880年日本地震学会創設ミルン・大森房吉
1923年関東大震災内務省震災予防調査会
1925年東京大学地震研究所設立初代所長 今村明恒
1960年代地震モーメント理論確立丸山卓男
2020年代AI・機械学習を導入した観測解析ERI・JAMSTEC

第2章:技術革新と地震学の転機

地震学の進化は「観測技術」「理論」「応用設計」という三段階で展開されてきました。ジョン・ミルンが水平振子式地震計を開発し、丸山卓男が地震モーメントを定義。こうした発展は、1980年代以降の地震カタログ整備や防災工学に波及しています。

2.1 観測技術の進化 — 地震計から海底観測網へ

地震計は機械式からデジタル式、さらに海底光ファイバー式へ。現在では海洋研究開発機構(JAMSTEC)が展開するDONET・S-netが、リアルタイム地震波を高精度で解析しています。

2.2 理論モデルの深化 — 地震モーメント・マグニチュードの普及

地震の規模を「モーメント」で表す考え方は、1960年代に丸山卓男氏が提唱。その後、カナダのカナメ研究者ハスキンスらとともに国際標準となり、現在のMw表記へと進化しました。

2.3 耐震・社会実装 — 地震防災・建築基準の変化

1981年の建築基準法改正により、耐震設計は「損傷制御型」に転換。ERIの研究成果が防災都市計画、ライフライン設計、自治体のハザード評価などに組み込まれました。


第3章:AI時代の地震研究と未来展望

AIとビッグデータの時代、地震研究も転換期にあります。観測データの自動解析、異常波形の自動検出、AIによる震源推定モデルなど、研究領域が広がっています。ERIでは近年、地震波動場の機械学習解析を用いて、スロー地震の検出精度を高めています。

3.1 AI/機械学習の導入例と研究成果

ERI・東北大・防災科研などが共同で開発した「AI地震波分類システム」は、地震波形を0.1秒単位で自動判別。発生直後の緊急通報制度(EEW)に応用されています。

3.2 国際共同研究・データ共有の潮流

米国USGSや欧州EPOSなどと連携し、データ形式を共通化。AIモデルによる世界規模の震源パターン分析が進んでいます。

3.3 課題と未来像 — AGI時代の地震科学

完全自律型AI(AGI)による地震予測はまだ理論段階ですが、モデル間比較(AGIモデル1号 vs 2号)を通じてリスク推定精度が向上する可能性があります。

【用語解説】

  • 地震モーメント:断層のずれ量と面積を用いて地震の規模を表す物理量。
  • AI地震波解析:機械学習を使い、ノイズと実地震波を自動で判別する技術。
  • DONET/S-net:日本が展開する海底地震観測網。リアルタイム観測を可能にする。

まとめ

東京大学地震研究所100年の歴史は、単なる学術機関の記念ではなく、地震研究が国家・社会・技術の全体を変えた軌跡そのものです。AI時代のいま、観測・理論・防災が再統合されようとしています。100年前に始まった「人命を守る科学」は、これからの100年でも進化を止めないでしょう。

参考文献:
・日本経済新聞(2024年11月9日朝刊)
・東京大学地震研究所公式サイト(ERI
・Nature / Springer / ScienceDirect 各誌掲載論文(Maruyama, T., Tsunemura, K., Kato, S., 2019–2024)

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