2025年7月6日2025年6月25日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す長岡半太郎‗【ボルツマンに学び原子構造の土星モデルを提唱】ー7/6改訂 こんにちはコウジです。 「長岡半太郎」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)長岡半太郎(人間の記録) 【スポンサーリンク】【1865年8月19日生まれ ~ 1950年12月11日没】長岡半太郎の豊かな人脈この長岡半太郎は大村藩の流れに生まれます。学生時代は東大で山川 健次郎や田中舘愛橘に学び、助教授としてドイツ留学していた時期にボルツマンに学びます。それだから実証主義の考え方も、留学以後は頭の片隅にあった筈です。どう考えて、どこまで核心に迫っていったか論じる際には当時の日本における量子論での現象把握を考えると良いでしょう。そんな事を考えながら、科学史の観点から論文を読んでみたくなりました。別の面から調べてみたら話は進む時があると思えるからです。そして長岡半太郎の子供時代は学業成績は芳しくなかったようです。この点は同時期の本多光太郎を思い出します。因みに、 二人に加わえて鈴木梅太郎の三人は 「理化学研究所の三太郎」 と呼ばれていたそうです。 携帯電話のコマーシャルで似たような人達居ましたね。長岡半太郎の研究業績長岡半太郎は田中舘愛橘と地震の論文を纏めたり、本多光太郎と磁気の論文を纏めたりしていますが、長岡半太郎の研究業績として大きいのは、なんと言っても原子モデルでしょうボルツマン仕込みでミクロへの探求を進めていたのです。トムソンがブドウパンの中のブドウのような形で中心からの距離や軌跡と無関係に電子の存在を仮定していたのに対し、長岡半太郎は原子の周りを電子が回転する土星のようなモデルを提唱しました。この話は、不確定性関係と合わせて論じてみたいと思います。後に確立された不確定性関係では対象粒子の位置と運動量の関係が論じられます。この二要素が関連して論じられる訳です。不確定性の考え方の枠組みでは運動量が確定している電子に対して位置は不確定であって当然です。具体的には個体原子の位置は止まっていると見なせそうですが、動き回る電子の位置の確定が難しいのです。「運動量」の観測精度を高めている電子に対して位置情報はどんどんぼやけてきてしまいます。時代を戻して長岡半太郎の時代に電子を観測することを考えてみて、電子の挙動をとらえる帯電物質を想定してみても帯電体の中を動き回る電子の動きを止める事は出来ません。電子とは何時も動いている物体だからです。それだから、初めの時点でのモデル化の難しさが出てくるのです。今日の物理学、特に量子力学的な知見では不完全なモデルとも言えますが、長岡半太郎のモデルは当時の原子モデルを大きく変えた点で高く評価出来ると思えます。全く知見の無かった原子という存在をに対して初期的なイメージを作る事が出来たのです。そのモデルをもとに帯電物質である電子の挙動が議論できたのです。 素晴らしいパラダイムシフトでした。〆最後に〆以上、間違いやご意見があれば 以下アドレスまでお願いします。 問題点に関しては適時、 改定や返信を致します。nowkouji226@gmail.com2020/09/13_初回投稿 2025/07/06_改訂投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 日本関連のご紹介 東大関連のご紹介 力学関係のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)Hantaro Nagaoka’s rich personal connectionsThis Hantaro Nagaoka was born in the flow of the Omura domain as well as Hideki Yukawa. He studied with Kenjiro Yamakawa and Aikitsu Tanaka at the University of Tokyo when he was a student, and with Boltzmann when he was studying abroad in Germany as an assistant professor. So did he discuss the idea of positivism based on his study abroad? When discussing how close he was to the core, it would be good to consider the phenomenon grasp in quantum theory in Japan at that time. With that in mind, I wanted to read the treatise from the perspective of the history of science. If you look at it from another side, it seems that there are times when the story goes on. And it seems that his academic performance was not good when he was a child of Hantaro Nagaoka.This point reminds me of Kotaro Honda at the same time. By the way, in addition to these two people, Umetaro Suzuki was called Santaro of RIKEN. There were similar people in mobile phone commercials.Research achievements of Hantaro NagaokaHantaro Nagaoka has compiled papers on earthquakes with Tanakadate Aikitsu and papers on magnetism with Kotaro Honda, but the major research achievement of Hantaro Nagaoka is probably the atomic model. I was pursuing a quest for the micro. Whereas Thomson assumed the existence of electrons in the shape of grapes in grape bread regardless of the distance or trajectory from the center, Hantaro Nagaoka created a Saturn-like model in which electrons rotate around an atom. Advocated.I would like to discuss this story together with the uncertainty relation. The uncertainty relation established later discusses the relationship between the position of the target particle and the momentum. These two factors are discussed in relation to each other. In the framework of that idea, it is natural that the position is uncertain with respect to the electron whose momentum is fixed. Specifically, it seems that the position of a solid atom is stopped, but it is difficult to determine the position of moving electrons. The position information becomes more and more blurred for the electrons that improve the observation accuracy of “momentum”.Considering going back in timeand observing electrons in the time of Hantaro Nagaoka, even if we imagine a charged substance that captures the behavior of electrons, we cannot stop the movement of electrons moving around in the charged body. Because an electron is an object that is always moving. That’s why it’s difficult to model at the beginning.Although it can be said that it is an incomplete model in today’s physics, especially in quantum mechanics, Hantaro Nagaoka’s model can be highly evaluated because it changed the atomic model at that time. I was able to create an initial image of the existence of an atom that I had no knowledge of. Based on that model, we were able to discuss the behavior of electrons, which are charged substances. It was a wonderful paradigm shift.FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年7月5日2025年6月25日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すピーター・ゼーマン【縮退の解放を使い、ナトリウム原子の電子特性を説明しました】-7/5改定 こんにちはコウジです。 「ゼーマン」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)宇宙と物質の起源 【スポンサーリンク】ピーター・ゼーマン【1865年5月25日生まれ ~ 1943年10月9日没】その名の綴りはPieter Zeeman。ゼーマンはオランダの小さな町、ゾンネメレに生まれています。またゼーマンはローレンツと同じ時代の理論家でローレンツと同時にノーベル賞を受賞してます。当然、アインシュタインとも交流をもちます。ゼーマンにとって幸運だったのはローレンツとカメリー・オネスに師事した事です。稀代の理論家と実験家の指導のもと、ゼーマンは、そうした素晴らしい環境で育ちます。そんなゼーマン等が出した結果がゼーマン効果です。具体的には磁場中に置かれたナトリウム原子のスペクトルを観察した時に、それが分裂していたのです。ローレンツとゼーマンによってなされた説明はナトリウム原子の内部構造についてのものでした。細かくは原子内部の電子が電荷を持ち、磁場中では今で言う縮退状態からの開放されるので(スピンの性質から)放射特性が変化するのです。更には、その電荷の物理量が別に理論を進めていたJ・J・トムソンのそれと近しい値をとった事でローレンツとゼーマンの理論は説得力をもちました。結果、ノーベル賞が贈られます。また、ノーベル賞受賞後にゼーマンはアムステルダムで 研究所を運営し、そこで電磁光学 の研究を進めています。特に、 移動する媒質の中での光の伝播 に関しても研究していますが、 それは相対論の形成に有益 でローレンツやアインシュタイン も評価していたと言われています。 因みにこの3人を考えると年齢順で ローレンツ(1853年生まれ) ゼーマン(1865年生まれ) アインシュタイン(1879年生まれ) の順番です。実験事実が確立していき、 相対性理論が熟成されていくのです。ローレンツとゼーマンの素晴らしい 点はナトリウム原子の構造を 解明した手法にあったと思います。 実験結果の積み重ね、仮設の設定、 そして全てを使った理論構築の モデルはその後に多くの学者が活用可能で 再現可能な手法だったかと思えます。 その後に他の原子も次々と性格が 明らかにされていきます。〆|コスパ最強・テックジム| プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近は全て返信出来てませんが 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/10/31_初版投稿 2025/07/05_改定投稿舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 オランダ関係の紹介へ ライデン大学のご紹介 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)The name is spelled Pieter Zeeman.Seeman was born in the small Dutch town of Zonnemaire. Zeeman is a theorist of the same age as Lorenz and has won the Nobel Prize at the same time as Lorenz. Naturally, he also interacts with Einstein.Fortunately for Zeeman, he studied under Lorenz and Kamerlingh Onness. Under the guidance of rare theorists and experimenters, Zeeman grows up in a wonderful environment. The result of such Zeeman is the Zeeman effect. Specifically, when I observed the spectrum of the sodium atom placed in the magnetic field, it was split.The explanation given by Lorenz and Zeeman was about the internal structure of the sodium atom. In detail, the electrons inside the atom have an electric charge, and in a magnetic field, they are released from the degenerate state as they are now called, so the radiation characteristics change (due to the nature of spin).Furthermore, Lorenz and Zeeman’s theory was convincing because the physical quantity of the electric charge took a value close to that of J.J. Thomson, who was advancing the theory separately. As a result, the Nobel Prize will be awarded.After receiving the Nobel Prize, Zeeman runs a laboratory in Amsterdam, where he pursues research in electromagnetic optics. He is particularly studying the propagation of light in moving media, which is said to have been useful in the formation of relativity and was also appreciated by Lorenz and Einstein. By the way, considering these three people, in order of age Lorenz (born 1853) Zeeman (born 1865) Einstein (born 1879) It is the order of. Experimental facts will be established and the theory of relativity will be matured.I think the great thing about Lorenz and Zeeman was the method of elucidating the structure of the sodium atom. It seems that the accumulation of experimental results, the setting of temporary settings, and the model of theory construction using all of them were methods that many scholars could utilize and reproduce after that. After that, the characteristics of other atoms will be revealed one after another.〆FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年7月4日2025年6月24日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すW・C・ヴィーン【黒体放射の研究やウィーンの法則をもたらした物性研究の先駆者】-7/4改訂 こんにちはコウジです。 「ヴィーン」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)輻射電磁流体シミュレーション 【スポンサーリンク】W・C・ヴィーン【1864年1月13日生まれ ~ 1928年8月30日没】その名を正確に記すとヴィルヘルム・カール・ヴェルナー・オットー・フリッツ・フランツ・ヴィーン:Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien熱力学における黒体放射の研究で有名です。ヴィーンは東プロイセンで農夫の子として生まれ、ベルリン大学でヘルツの元で学位を取ります。そこでの学位論文は光の回析特性に関する論文でした。その後ヴィーンはレントゲンの後任としてヴュルツブルク大学で教鞭をとっています。またヴィーンはドイツ物理学会で会長を努めていて、前任はゾンマーフェルトでした。 さて、今日までヴィーンの業績・人となりを 調べていて断片的な印象を持ってしまいました。 それだから、ヴィーンの「人柄」が伝えられないのです。 実際の性格もあるのでしょうが、考えてみてたら、 当時の時代背景も大きいと思えてきました。 ヴィーンはドイツで生まれドイツで亡くなっています。 その時代のヨーロッパでは大戦がありました。 特にドイツはユダヤ人を迫害し、 何人ものユダヤ人物理学者が 反ドイツの体制で活動していました。 ヴィーンが生きたのは、そんな時代なのです。そんな時代にヴィーンはソルベーユ会議に出ていて 国を代表して物理学会に関わっていたでしょうが、 政治絡みの考えは他のメンバーと独自のものとなって いたと考えられます。時節柄、修業を兼ねて他国へ 留学したり協同研究をしたりする環境とは 大きく異なっていたのでしょう。ドイツ帝国の人ですから。 ヴィーンは現代とは異なった環境に生きていたのです。ヴィーンの業績について考えてみると、 ヴィーンの法則はプランクの法則の極限 として考える事が出来ます。この法則は 反応を起こす物質の温度と放出される 電磁波の波長を関連付けますが、 対象物質の内部構造迄、踏み込んだ議論 を垣間見る事は出来ません。現象の 不完全な定式化であって独自の理論です。考えを進めさせて頂くと、 マッハとボルツマンの考え方の 対立も思い起こされます。 ソルベー会議に出席する中で ヴィーンもまた従来の考え方を守る立場で、 伝統的な枠組みの中で葛藤していたのでしょうか。はっきりと確定して言える内容に悩み、 使っている推論の妥当性に対して悩みます。 ミクロの現象に対するモデルが大きく変更される 時代に当事者達は大胆かつ慎重に 判断せねばならなかった筈です。 いつかまた考えてみたいと思っています。それにつけても、 ヴィーンの法則は我々に新しい知見を もたらしていて、物質内部での反応に対し 変化を定量的議論の枠組みに乗せて 次なる議論の礎を作っています。 確かな一歩でした。〆|コスパ最強・テックジム| プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 この頃は全て返信できていませんが 頂いたメールは全て見ています。 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2020/11/09_初回投稿 2025/07/04_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 ドイツ関連のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へ【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)The exact name is Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien.He is famous for his work on blackbody radiation in thermodynamics. Wien was born in East Prussia as a child of a farmer and holds a degree from Hertz at the University of Berlin. His bachelor’s thesis there was a treatise on the diffractive properties of light. Wien has since taught at the University of Würzburg as a successor to Roentgen. Wien was also chairman of the German Physical Society, and his predecessor was Sommerfeld.By the way, until today, I have been investigating Veen’s achievements and personality, and I have a fragmentary impression. That is why Veen’s “personality” cannot be conveyed. He may have an actual personality, but when I think about it, I think he has a big historical background at that time. Vein was born in Germany and died in Germany. There was a great war in Europe at that time. Germany, in particular, persecuted Jews, with a number of Jewish physicists operating in an anti-German regime. It was at that time that Veen lived.At that time, Veen would have been involved in the Physical Society of Japan on behalf of the country at the Solbeille Conference, but it is probable that his political ideas were unique to the other members. Perhaps it was very different from the environment in which students study abroad or collaborate in research in other countries for the purpose of training. He is from the German Empire. Veen lived in a different environment than it is today.Considering Wien’s achievements , Wien’s law can be thought of as the limit of Planck’s law. This law associates the temperature of the substance that causes the reaction with the wavelength of the emitted electromagnetic wave, but we cannot get a glimpse of the in-depth discussion of the internal structure of the target substance. It is an incomplete formulation of the phenomenon and is an original theory.As I move forward, I also recall the conflict between Mach and Boltzmann’s ideas. Was Veen also struggling within the traditional framework in attending the Solvay Conferences, in a position to uphold his traditional thinking? He is worried about what he can say clearly and definitely, and about the validity of the reasoning he is using. The parties would have had to make bold and careful decisions in an era when the model for microscopic phenomena changed drastically. I would like to think about it again someday.Even so, Wien’s law brings us new insights, laying the foundation for the next debate by putting changes in the reaction within matter within the framework of a quantitative debate. It was a solid step.〆FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年7月3日2025年6月23日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すダーヴィット・ヒルベルト【現代数学の父・高木貞治の師・そしてフォンノイマンを評価】-7/31改訂 こんにちはコウジです。 「ヒルベルト」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)数の概念 【スポンサーリンク】ダーヴィット・ヒルベルト【1862年1月23日 ~ 1943年2月14日】 ヒルベルトの名前を英語でつづるとDavid Hilbertとなり ドイツ語:でつづるとˈdaːvɪt ˈhɪlbɐtとなります。誰しもが認める 「現代数学の父」がヒルベルトです。遅ればせながら、 誰しもが認める大物をご紹介します。 ヒルベルトは当時プロイセン王国領だったケーニヒスベルク (今はロシア領であるカリーニングラード)に生まれました。ヒルベルトはケーニヒスベルク大学に進学し学びますが、この大学では別途、カントが(別の時代に)学び、学長を務めていたような歴史ある大学です。もともとドイツ騎士団だった人物が設置した大学で、第二次大戦後はソビエト連邦領として統治されていました。初稿を記した2022年からウクライナとロシアの紛争が続いています。ロシアの領土を巡る経緯は非常に根深いものがあると感じさせる地方です。思えば旧東ドイツも第二次大戦後は実質的にロシアの支配下あったとも言えます。プロイセン王国ではありますが、後の時代には他国であったような地方でヒルベルトは生まれ学びました。後に多彩な才能がヒルベルトを育てました。特にウェーバーはドイツ数学の影響をヒルベルトに与えたと言われています。ヒルベルトの伝記(C.リード著)を読んで 博士号授与時の言葉が印象的でしたので記載します。 学部長は求めました。「あなたの厳粛な宣誓を求めます。真の科学を雄々しく擁護し、それを発展させ、 より見事なものにすること、そしてこれを利益の追求や虚栄のためにではなく、 神の真実の光が広がるために行うこと、これをあなたの真心を込めて約束することを。」ヒルベルトはこの言葉に対して宣誓を誓い学位を受けました。更に、同大学でヘルマン・ミンコフスキーとアドルフ・フルヴィッツと刺激を与えあう関係を持ちます。なかんずくミンコフスキーとは「最良にして、本当の友人」と感じるような関係を築きました。上記の伝記でヒルベルトは45歳の時に自転車に乗り始めたときのことが描かれています。 自転車は「彼(ヒルベルト)の創造活動に欠かせない付随物になかつた」と記されています。 当時のケ゚ッチンゲン大では大変自転車が流行していて、ヒルベルトは バラの花壇の周りを八の字にクルクル周って楽しんでいたようです。またヒルベルトは偉大な数学者を多数、指導輩出しています。教育者として非常に優れています。ヒルベルトはゲッティンゲン大学で色々な人を指導していきました。ゲッティンゲン大学に居た一人であるヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン(のちのジョン・フォン・ノイマン)の論文を評価していて、ノイマンは後に原子爆弾やコンピュータの開発で特筆される業績を残します。また、後述する「ヒルベルト空間」の名付け親はノイマンだと言われています。「三次元ユークリッド空間」を発展させていったのです。ヒルベルトは当時22歳であったノイマンをゲッティンゲン大学に招いて育てたのです。また日本人では東大の高木貞治がドイツ留学時代ヒルベルトの指導を受けたと言われています。思い返せば恐縮ながら、私も高木貞治の教科書を使っていたので、日本で数学を志す若者もヒルベルトの影響を受けていたのです。明文化すると少し感慨深いです。ヒルベルトの業績で大きいと思えるのは数学概念の統合計画」と言える仕事だと思えます。それは不変式論、抽象代数学、代数的整数論、積分方程式、関数解析学、幾何学の公理系の研究、一般相対性理論などで個別にあった公理を整理して応用を考えました。また現実の現象(人間の頭の中での認識群)との相関を考えた時に、多岐に及ぶ業績を「結びつける試み」であると思えます。 ヒルベルトの「公理論と数学的な整合性の証明」に関する 一連の計画はヒルベルト・プログラムと呼ばれ、 現代で理解されています。後にフォンノイマンも議論を続け、ヒルベルト空間と呼ぶ空間を3次元ミンコフスキー空間から発展させています。また、ヒルベルトの零点定理などに名前が残っています。何よりヒルベルトはドイツの数学レベルを世界最高の水準へと、ひきあげた数学者達の一人でした。一流の数学者でした。そんなヒルベルトは、晩年にナチスドイツによるユダヤ人迫害を目の当たりにしています。ドイツの数学研究所からユダヤ人たちが一人一人いなくなっていく様子に心を痛めていたそうです。また晩年(1927年頃)、上記の伝記によるとヒルベルトは人間関係で困難に直面しています。 特にAnnalenという雑誌の主筆の間での話が有名で、Vol100の表紙での人選で揉めたり、国際会議のボイコット騒ぎがあったりしました。「アインシュタインは3人の主筆の1人であったが、この論争に煩わされて、その地位を辞した」と言われています。そして言いました。「一体、この数学者同志の仲間争いは何事かね??」(アインシュタインが友人にぼやいた言葉)〆最後に〆|コスパ最強・テックジム| プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com2022/04/06_初回投稿 2025/07/03_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 力学関係のご紹介へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】テックアカデミー無料体験 【スポンサーリンク】(対応英訳)Hilbert’s name is spelled in English as David Hilbert and German: as ˈdaːvɪt ˈhɪlbɐt. The undisputed “father of modern mathematics” is Hilbert. I will introduce the big game that everyone recognizes, though it is late. Hilbert was born in Königsberg (now Russian territory Kaliningrad), which was then the Kingdom of Prussia.Hilbert goes on to study at the University of Königsberg, which is a historic university where Kant studied (at another time) and was the president. The university was originally set up by a man who was the Teutonic Order, and was ruled as the Soviet Union territory after World War II. In 2022, when I wrote the article, the conflict between Ukraine and Russia continued, but it is a region that makes me feel that the history of Russia’s territory is very deep-rooted. If you think about it, it can be said that the former East Germany was also under the control of Russia. Although it is the Kingdom of Prussia, Hilbert was born and learned in a region that would have been another country in later times. Later, various talents raised Hilbert. In particular, Weber is said to have influenced Hilbert with German mathematics. In addition, he has an inspiring relationship with Hermann Minkowski and Adolf Hurwitz at the university. Above all, he had a relationship with Minkowski that made him feel “best and true friend”.Hilbert has also produced many great mathematicians. He is very good as an educator. Hilbert taught various people at the University of Göttingen. He appreciates the paper of one of them, Johannes Ludwig von Neumann (later John von Neumann), who later made remarkable achievements in the development of atomic bombs and computers. In addition, it is said that Neumann is the godfather of “Hilbert space” described later. He developed the “three-dimensional Euclidean space”. Hilbert invited Neumann, who was 22 at the time, to the University of Göttingen to raise him. It is said that Teiji Takagi of the University of Tokyo received guidance from Hilbert when he was studying in Germany. Looking back, I’m sorry to say that I also used Teiji Takagi’s textbook, so young people who aspired to mathematics in Japan were also influenced by Hilbert. I am a little deeply moved when it is written.What seems to be a big achievement of Hilbert is the work that can be said to be the integration plan of mathematical concepts. It is an invariant theory, abstract algebra, algebraic integer theory, integral equations, functional analysis, research on axioms of geometry, general relativity theory, etc. When considering the correlation with the phenomenon (recognition group in the human mind), it seems to be an “attempt to connect” a wide range of achievements. Hilbert’s program, a series of plans for proof of mathematical consistency with Hilbert’s public theory, is called the Hilbert Program and is understood today. Later, von Neumann continued his discussion, developing a space called Hilbert space from the three-dimensional Minkowski space. In addition, the name remains in Hilbert’s zero point theorem.Above all, Hilbert was one of the mathematicians who raised the level of mathematics in Germany to the highest level in the world. He was a leading mathematician. Hilbert witnessed the persecution of Jews by Nazi Germany in his later years. He was hurt by the disappearance of each Jew from the Deutsche Mathematics Institute.FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年7月2日2025年6月22日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すピエール・キューリ_【ピエゾ効果や磁性損失を研究して定式化した優れた実験家】ー7/2改訂 こんにちはコウジです。 「ピエール・キューリ_」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)数と数式 【スポンサーリンク】ピエール・キューリ【1859年5月15日生まれ 〜 1906年4月19日没】ピエール・キューリって有名ご紹介するピエールはマダム・キューリの 旦那様ですが、調べていけばいくほど良い男です。ピエールはフランスのパリに生まれましたが、学校に行きたがらず、お医者だったお父様や家庭教師等に勉強を教えてもらって自宅で勉強していました。特に数学で優秀さを発揮して、とりわけ幾何学で光る所を見せるようになっていき、16歳でパリ大学に入学します。そしてなんとピエールは18歳で学士号を得てしまいます。今の日本では現役学生が入学試験を受ける年齢ですね。びっくりです。ご家庭の事情で博士号習得はあきらめて物理研究室の助手として働きます。原子に対して知見が集まりつつあった未開の時代に数々の業績を残しています。 パリ大学鉱物学助手時代に圧電効果圧電効果とピエゾ効果発見ピエールは同じ大学の兄ジャックと協同研究を進めます。水晶等の結晶に圧力差が生じた時に電位差が発生する現象を定理化して「圧電効果」または「ピエゾ効果」と呼ばれる法則を明確に定式化して、公表しました。更に、彼等はもう一つの現象も示します。水晶に電界を加えた時に形が変わるという現象を発表しましています。現代の工業製品での応用現在の工業製品ではこの応用である水晶振動子がデジタル回路で使われています。固有周波数を持つので時計やコンピュータの回路で時間(クロック)の基準となっているのです。最新機器は衛星情報で時刻を補正しますが、得ている衛星情報の基準が厳密な水晶発振器だったりします。 現場の精度を議論出来る仕組みである、 振動子をピエールは作りました。 ピエールと磁性ピエールは磁性に対して更に研究を進めています。その中で自差係数を計測するための精密なねじりばかりを使っていますが、その装置は後に精密計測で世界中の研究者に広く使われています。ピエール・キュリーは博士論文のテーマとして強磁性、常磁性、反磁性について研究をおこないました。特に常磁性への温度特性を「キュリーの法則」として定式化しています。。その式に出てくる物質固有の定数は「キュリー定数」と呼ばれています。更に強磁性体の磁性損失も明らかにしています。「キュリー点」です。キュリー天秤も作りました。沢山の業績を残していますね。科学と愛が導いた発見の軌跡ピエール・キュリーは、出世や名誉に関心を示さず、 質素な生活を送り続けた人物でした。フランス政府から 授与される教育功労勲章でさえも辞退し、 研究と教育に静かに身を捧げていたのです。しかし、 その誠実な姿勢と研究成果は国外では高く評価されていました。 1893年には、英国の著名な物理学者ケルヴィン卿が ピエールを訪ねてパリを訪問しています。 フランス国内では控えめに扱われていた彼の存在が、 国境を越えて光を放っていたのです。そんなピエールのもとに現れたのが、ポーランドから 留学してきた才女、マリア・スクウォドフスカ (後のマリ・キュリー)でした。ふたりはやがて結婚し、 研究でも人生でも強い絆を築いていきます。 ピエールの人柄と静かな情熱に惹かれたマリアが、フランス人として 生きていくことを選んだのも、自然な流れだったのでしょう。 ピエールが何度も手紙を書き、マリアに想いを伝えていた というエピソードも残されています。ふたりは簡素な下宿で、互いを支え合いながら穏やかで温かな日々を過ごしました。そして、夫婦は共同で放射性物質の研究に取り組み、ポロニウムとラジウムという新元素を発見。「放射能」という言葉も彼らの提案によって生まれました。研究の末、ピエールは学生たちとともに核エネルギーの存在を発見します。後の原子力の時代を切り開く、その始まりとなる瞬間でした。原子核の遷移は熱を生んでいたのです。学生との発見は続き、アルファ線、ベータ線、ガンマ線を見付けています。それぞれの放射線の帯電特性に気付いた訳です。 こうした成果をピエールがあげていく中で、過度の研究の中でピエールの心身のダメージは徐々に蓄積していきました。リウマチの症状で毎晩ピエールは激痛に襲われて悲鳴をあげていたそうです。妻マリアとベクレルと共にノーベル物理学賞を受賞した際には体調不良で授賞式に出られませんでした。運命の日1906年4月19日木曜日当時パリ大学教授になったばかりのピエールは昼食後2時半頃に目的地に徒歩で移動していました。パリの狭い道を多くの馬車が混走していました。道を渡り損ねた彼は馬車にひかれてしまい、頭蓋骨にひどいダメージを負って即死してしまうのです。一瞬の悲劇でした。フランスは宝を失います。彼の死後に妻マリアは2度目のノーベル賞を得ています。また娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーとその夫で研究所の助手だったフレデリック・ジョリオ=キュリーも放射性元素の研究でノーベル賞を受賞しています。もう1人の娘エーヴは、母の伝記を書き残しました。孫の ヘレン ランジュバン ジョリオ はパリ大学の核物理学教授で、同じく孫の ピエール ジョリオ は生化学者です。そして今ピエールとマリの魂はパリのパンテオンの地下聖堂に眠ってます。他のフランスの産んだ偉人達と共に。フランスの名誉と共に。夫婦で深い安らかな眠りを続けています。〆コスパ最強・テックジム|プログラミング教室の無料カウンセリング【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 この頃は全て返信できていませんが 頂いたメールは全て見ています。 適時、返信・改定をします。nowkouji226@gmail.com2021/01/21_初稿投稿 2025/07/02_改定投稿 サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 フランス関連のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へ 力学関係のご紹介へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)Pierre Curie is the famous Madame Curie husband, but the more you look up, the better he is.Pierre was born in Paris, France, but he didn’t want to go to school and was studying at home with his father, a doctor, and a tutor. He entered the University of Paris at the age of 16, especially as he demonstrated his excellence in mathematics, especially in geometry.And Pierre gets his bachelor’s degree at the age of 18. In Japan today, it’s the age at which active students take entrance exams. That’s surprising. Due to family circumstances, I give up my PhD and work as an assistant in the physics laboratory. He has made many achievements in the undeveloped era when knowledge about atoms was gathering.He works with his brother Jack, who was also an assistant in mineralogy at the University of Paris. The phenomenon that a potential difference occurs when a pressure difference occurs in a crystal such as quartz is theoremized, and the law called “piezoelectric effect” or “piezo effect” is clarified and published. In addition, they show another phenomenon. We are announcing the phenomenon that the shape changes when an electric field is applied to the crystal. In current industrial products, this application, the crystal unit, is used in digital circuits. Since it has a unique frequency, it is the standard for time (clock) in clock and computer circuits.Pierre is researching magnetism . Among them, he uses only precision torsion to measure the deviation coefficient, but the device was later widely used by researchers all over the world for precision measurement.Pierre Curie studied ferromagnetism, paramagnetism, and diamagnetism as the theme of his dissertation. He especially formulates the temperature characteristics for paramagnetism as “Curie’s law”. .. The substance-specific constants that appear in the formula are called the “Curie’s constant”. Furthermore, the magnetic loss of the ferromagnet is also clarified. It is a “Curie point”. He also made a Curie balance. You have a lot of achievements.Although he had achieved many such achievements, Pierre was content with a low salary and was not interested in his career and refused the Order of Educational Achievement. Such Pierre is highly evaluated in foreign countries, and in 1893, Sir Kelvin of England visited. Pierre then met and married the Polish Maria Squadovska (later Mrs. Curie).Pierre seems to have sent a love letter many times. He had a warm time in a simple boarding house. After that, my husband and wife were jointly researching radioactive materials.He discovered polonium and radium and proposed the term radioactivity. And finally Pierre discovers nuclear energy with his students. Nuclear transitions were producing heat. His discoveries with his students continued, finding alpha, beta, and gamma rays. I noticed the charging characteristics of each radiation.As Pierre achieved these achievements, Pierre’s physical and psychological damage gradually accumulated through his excessive research. Pierre was screaming every night because of the symptoms of rheumatism. When he won the Nobel Prize in Physics with his wives Maria and Becquerel, he was ill and could not attend the award ceremony.And the day of his destiny will come.It is Thursday, April 19, 1906. Pierre, who had just become a professor at the University of Paris at the time, was walking to his destination around 2:30 after lunch. He was crowded with many carriages on the narrow streets of Paris. He fails to cross the road and is run over by a carriage, causing terrible damage to his skull and dying instantly. It was a momentary tragedy. France loses treasure.His wife Maria has won the Nobel Prize for the second time after his death. Her daughter, Irene Joliot-Curie, and her husband, an assistant at the institute, Frederick Jorio-Curie, have also won the Nobel Prize for her work on radioactive elements. Another daughter, Ave, wrote down her mother’s biography. Her grandson her Helen her Langevin her Jorio is a professor of nuclear physics at the University of Paris, and her grandson her Pierre her Jorio is a biochemist.And now the souls of Pierre and Mali are sleeping in the crypt of the Panthéon in Paris. With other great men from France. With the honor of France. The couple continues to sleep deeply and peacefully.FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年7月1日2025年6月21日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すマックス・プランク【実証主義に対して実在論を展開してプランク定数を定めました】ー7/1改訂 こんにちはコウジです。 「プランク」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)比熱実験キット 【スポンサーリンク】マックス・プランク【1858年4月23日生まれ ~ 1947年10月4日没】その名は正確には、 マックス・カール・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク (Max Karl Ernst Ludwig Planck)【現在の国で言えば】ドイツ生まれのプランクは前期量子論の主要メンバーの一人です。ベルリン大学でヘルムホルツと共に教授職を務めた際には、当時の重鎮だったヘルムホルツと同列に話が出来る事に対してプランクは大変な名誉を感じていたそうです。ヘルムホルツから評価を受けた時などはとても嬉しかったとこぼしていたと言われています。因みに、この時のプランクの教授就任はキルヒホッフの死去に伴うもので、就任前に大学側はボルツマンとヘルツに打診をしていたそうです。そしてプランクは黒体放射の研究からエネルギーと輻射波の関係を導き、プランクの法則として理論化します。学問的方法論の観点から語れば、エルンスト・マッハの実証主義に対しプランクは実在論を展開しています。プランクは微視的な物理公式を特徴づける定数である「プランク定数」を提唱しています。即ち微視的な知見において、不連続な物理量を上手に理論に取り入れて微細な定数を導入して体系化しているのです。プランクの提唱した一連の考え方はとても大事な概念で、量子力学の根幹をなしています。現代の我々が後付けで考えてみると、取り得る状態が不連続だから行列力学で使えます。そして状態の時間発展が量子力学体系の中で記述出来て、微視的な状態間の遷移が「定量的に」表せるのです。こうした様々な新概念が提唱されたのです。そんな、プランクらの時代における改革には、まさに 「パラダイムシフト」という言葉が使えます。 思想体系において大きな変換が起きました。 まず、考え方のハードルをクリア出来た事は 物理学にとって大きな一歩であったと言えます。そして明記しておきたいのはボルツマンのプランクに対する評価です。 秀逸なブログを見つけましたので引用させて頂きます。 【https://jmedia.wiki/温度とエネルギーに関するボルツマン定数/Boltzmann_constant より引用】「(以下引用) 1920年、プランクはノーベル賞受賞講演で次のように書いている。[13] この定数はしばしばボルツマン定数と呼ばれますが、私の知る限り、 ボルツマン自身はこれを導入したことがありません。これは奇妙な状況で、 ボルツマンが時折発した発言からわかるように、この定数の正確な測定を 実行する可能性について考えたことがなかったという 事実によって説明できます。(ここまで引用)」 ボルツマンの没後にその仕事の意義が深められ、評価された事実は 人々の心に残るストーリーです。明記していなくて御免なさい。 【以上12行、2025年7月の改定で追記しました】そしてプランクは戦争の時代を生きたので幾多の悲劇を味わいました。人道的見地から、アインシュタイン等へのユダヤ人迫害に対して当時の独裁者であるヒットラーに直接意見を述べています。そして、プランクの長男は第一次世界大戦で戦死しています。プランクの二男はヒットラーを暗殺に加担したので処刑されてしまいました。加えてプランク自身も国賊の親として批難を受けていました。更には、、他にプランクには二人の娘さんが居ましたが、共に孫娘を産んだ後に亡くなっています。こうして色々とあったプランクの人生ですが、プランクの残した業績は決して消えていません。プランクの名前を残しているプランク定数は今でも世界中で議論の中で使われていて、彼の名を冠した研究所は21世紀になっても最先端の研究を続けています。〆テックアカデミー無料体験 【スポンサーリンク】以上、間違いやご意見があれば 以下アドレスまでお願いします。 問題点に対しては適時、 改定・訂正を致します。nowkouji226@gmail.com2020/09/08_初回投稿 2025/07/01_改訂投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 ドイツ関連のご紹介へ 熱統計関連のご紹介へ 量子力学関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)To be exact, its name is Max Karl Ernst Ludwig Planck.[Speaking in the current country] German-born Planck is one of the main members of the early quantum theory.When he was a professor with Helmholtz at the University of Berlin, Planck was very honored to be able to talk with Helmholtz, who was a major figure at the time. He is said to have complained that he was very happy when he was evaluated by Helmholtz. By the way, Planck’s appointment as a professor at this time was due to Kirchhoff’s death, and it seems that the university side had consulted with Boltzmann and Hertz before his appointment. Planck then derives the relationship between energy and radiant waves from the study of blackbody radiation and theorizes it as Planck’s law.From an academic methodology perspective, Planck develops realism against Ernst Mach’s positivism. Planck advocates the “Planck’s constant,” which is a constant that characterizes microscopic physical formulas. That is, in microscopic knowledge, he skillfully incorporates discontinuous physical quantities into theory and introduces minute constants to systematize them.The series of ideas proposed by Planck is a very important concept and forms the basis of quantum mechanics. When we think about it later, it can be used in matrix mechanics because the possible states are discontinuous. And the time evolution of states can be described in the quantum mechanical system, and the transition between microscopic states can be expressed “quantitatively”.You can use the term paradigm shift. A major transformation has occurred in the ideological system. First of all, it can be said that clearing the hurdle of thinking was a big step for physics.And since Planck lived in the era of war , he experienced many tragedy. From his humanitarian point of view, he speaks directly to Hitler, the dictator of the time, about the persecution of Jews against Einstein and others. And Planck’s eldest son was killed in action in World War I. Planck’s second son helped Hitler assassinate and he was executed. In addition, Planck himself was criticized as a parent of national bandits. In addition, Planck had two other daughters, both of whom died after giving birth to a granddaughter.In this way, Planck’s life has changed, but his achievements have never disappeared. Planck’s constant, which retains Planck’s name, is still used in discussions around the world, and his institute continues to do cutting-edge research into the 21st century.〆FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年6月30日2025年6月21日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残す【「老人の呟き」からの転載_6月末】・量子力学【2005-06-17】・武谷光男【2005-07-10】・三段階論とQCD 【2005-08-13】・武谷三男の本 【2005-10-16】・Glauberのノーベル賞受)賞 【2005-10-06】・DysonのThe scientist as rebel【2007-01-30 】・Heufieber(hay fever) 【2007-02-23 】・Grossのノーべル賞受賞講演 【2007-04-28 】・武谷三男の年譜作成への試み 【2007/4/25】・仕事とエネルギー 【2007/5/31】・慣性の法則 【2007/5/17】・熱力学の第1法則 【2007/5/2】量子力学2005-06-17 15:08:49 | 物理学(以下引用)田舎の大学だけれども、私は35年以上量子力学を教えてきた。数学もその量子力学を理解しようとした範囲内で勉強してきた。工学部で教えてきたのだが、他大学はわからないが、私の教えた大学ではあまり熱心な学生にはいくつかの例外を除いて出会わなかった。いま話題としているのは学部段階のレベルの初歩的な量子力学である。それより高等な話はほとんどない。でも、数学のいろいろな疑問が出てきたりして、体系としての数学ではなく、その数学の断片的な知識が必要とされた。そういう過程から、『数学散歩』(国土社)が出来上がってきました。今日は量子力学の講義でトンネルダイオードの話をしたのですが、その準備で少し半導体のことを木下是雄先生の『物質の世界』(培風館)で勉強してみました。あまり、半導体は勉強する機会がなかったことですが、結構面白いですね。これは木下さんの書き方がいいのだろう。もっとも、電気電子の学生でもここに書かれているようなことを知っているのかどうかは疑わしい。4回生くらいになると、多分もっと知っているのでしょうが、相手が2回生ですからどうもはじめてみたいな顔をして聞いている。もっとも、私自身が学校であまり半導体のことは習っていない。大学に勤めるようになって一夏かかって学生実験のテキストを書いたことがあり、そのときに少し勉強したがあまり日ごろ使わないので忘れてしまう。そこらあたりが専門家と専門でない者との違いでしょうか。量子力学といっても、偏った量子力学で、大学の理学部で学ぶ一般の量子力学とは言いがたい。でも、1時期うんざりしたことがあったが、その1時期を除いて、いつも新鮮な気持で授業に取り組んできた。学生からの評判はとても悪くて落ち込むことのほうが多かったが、それでもくじけずにやってこられたのは、ひとえに量子力学の奥深さと面白さによるものだろう。昨年の講義が最後と思っていたが、事情で今年だけ非常勤講師をしている。今年はあまり黒板で計算はせずに主な内容を説明するという方式をとっている。はたして評価はどうだろうか。楽しみである。(引用此処まで)武谷三男と三段階論2005-07-10 18:58:52 | 物理学(引用此処から)「武谷三男と三段階論」という題で徳島科学史研究会と科学史学会四国支部の合同年会で講演をすることになった。もっともまだ何を話すか決めてはいないが、おおよその話す内容は(1)自己紹介(2)武谷三男の紹介(3)三段階論の紹介の三つを予定している。全体で1時間だが、質疑応答に10分を使うと50分を講演に使うことになる。武谷三男の業績というと何だろうか。彼はまず第一に三段階論の提唱者である。自然の認識は現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階という三つの段階を経て、認識されるということを提唱した。また、技術論では「技術とは客観的自然法則の意識的適用である」と定義して新しい技術論を開いた。これらは哲学とか科学史とか技術論の分野の業績である。物理学ではどんな業績をもっているだろうか。まず第一に核力研究の指導者としてのTNSといわれる核力を核子-核子の距離によって3つの領域に分けて領域ごとに異なった方法で研究するという方針を立てて、核力グループという研究者集団を組織した。それによってグループとして日本の核力研究をリードした。領域 I は1 pion交換領域でここでのポテンシャルを確立した。領域 II はもう少し内側の領域で実質的には共鳴状態としてのrhoとかomega中間子が核力に効いてくる領域である。領域 III は現象論的に研究されるべき領域とした。hard core その他のテーマがあった。核力の問題が現在最終的に解決したといえるのかどうかは私にはわからないが、現在ではQCDといわれる学問体系が出来上がっている。しかし、これは核子をクォークからできているとして、クォークの間の力をグルーオンというゲージ粒子が交換されるということから説明しようとしている。もっともQCDではクォークとクォークとの距離が近づけば近づくほど力が働かなくなり、遠ざかろうとすれば、大きな力が働くという性質のきわめていままでと変わった性質の力が働くと考えている(漸近的自由とクォークの閉じ込め)。このようなQCDが出来上がる前の段階を見てみると、(1) deep inelastic散乱ではBjorkenのスケーリング則があり(現象論的段階)(2) その後にFeynmanのparton modelが出てきて、quarkがpartonとして考えられた(実体論的段階)(3) それを受けてGross, Wilceck,Polizterの漸近的自由をみたす量子場の発見があった(本質論的段階)物理の話の筋としてはこのようになっているのだが、核力研究としての武谷の研究方法は成功を収めたと言えるのだろうか。これは私にはまだ分からない点である。核力はクォークとクォークとの間の力から導かれる2次的な力ということになった。核子がクォークの3体系となっているので、それらの足し上げとしての力となったために1次的なgluonによるクォークとクォーク間の力によって核子と核子間の力をeffectiveに導くということができるはずである。それをすることが意味のあることかどうかということが問題であろうか。(引用此処まで)三段階論とQCD2005-08-13 11:52:22 | 物理学(引用此処から)三段階論はもちろん武谷三男の三段階論である。QCDはQuantum Chromodynamics(量子色力学)である。この二つがどんな関係にあるといわれたら、全く関係がないよというのが専門家の考えであろう。でもいつのころからか私はQCDが形成される段階は武谷の三段階論にしたがっているのではないかという考えをもってきた。少なくとも誰かの書いたものからそんなことを思いついたのではないから、もしかして誰かが私と同じことを考えているということもありうる。話の筋はdeep inelastic散乱でBjorkenのスケーリング則が見出されたが(現象論的段階)、SLACのepのデータを見たFeynmanがそのデータからpartonモデルを考案した。それはスケーリングを説明しただけでなくハドロンは多くの点状粒子から成り立っているという新しいハドロンの猫像をつくった(実体論的段階)。そして、そのことからGross-WilczekやPolitzerのasymptotic freeな量子場の理論ができて、摂動論的QCDができあがった(本質論的段階)。もっともasymptotic freeな量子場理論ができあがるにはこんな単純な推論ではなく、もっと面倒な事実があったのだが、できあがった経過を細かな議論を抜きにして考えると上のような三段階論にしたがった推論になる。三段階論は科学史家の広重徹氏には不評であったと思う。広重氏の批判はあたっていたかもしれないが、広重氏が新たな彼自身の方法論を提示しなかったという点に不満が残っている。だから広重氏の武谷に対する批判はたとえ部分的にあたっていてもそれを乗り越える創造的な観点があるとは広重氏の本を読んでは感じられなかった。昔のことで本当にそうであったかはわからないが、一応私の見解をここに記録しておく。(引用此処まで)武谷三男の本2005-10-16 11:51:49 | 科学・技術(引用此処から)武谷三男の本を集めている。古い本が多いのだが、私の所有するものももう160冊に近い。ちょっとでも武谷の寄稿がある本なら何でも集めているが、私の調べたところでも190冊近くが出版されている。そのリストはすでに「素粒子論研究」に2度にわたって載せているが、まだまだありそうである。なかなか人間のやることは完全というわけには行かない。現物が手に入らないものは図書館で借り出しを受けてコピーをしている。武谷三男全集が編纂、発行されることがあれば、私のところへ相談に来なければうそというものであろう。しかし、ということは武谷に関する文献では本人とか国会図書館を除いて世界で一番集めていると思う。武谷は2000年に亡くなったので、遺族が彼の著書を完全に保管していれば、それにはもちろんかなう訳ではないが、どうだろう。遺族というのは存外面倒がったりしてぞんざいに扱っているかもしれない。これは遺族を非難しているわけではなく、普通にはそんなもんだと思うからである。因みに私の作成したリストは国会図書館で武谷三男で検索して得られるリスト数130点前後よりもはるかに多い。もっともこの資料がいつ役に立つかはたまた全く役に立たないのかはわからない。でもそんなことをやっている人間がいるということが大切なのではないか。どうも歳をとると変なことを自慢するようになるが、これが老化ということだろうか。(引用此処まで)Glauberのノーベル賞受賞2005-10-06 11:38:07 | 物理学(引用此処から)Glauberの光の理論はあまり勉強したことはないのだけれど、原子核物理学でのGlauber理論は少し学生時代に勉強したことがあった。その後、アイコナール近似と呼ばれたのがGlauberの理論だったと思う。一度勉強してそれから振り返ったことがないので、間違っているかもしれないが。Glauberは昔から個性ある物理学者として知られていたらしく、朝永振一郎がプリンストン高等研究所に滞在した頃、このGlauber理論が出たのだと思う。ということは1949年ころのことでしょうか。もう約65年も前のことになりますね。「素粒子論研究」の朝永さんからの海外便りにGlauberのことが出ていたと思う。もっともそれを読んだのは朝永の論文集でです。長生きすれば、ノーベール賞ももらえるチャンスが出てくるといういい例ですね。もっとも若いときにいい仕事をしておかなくてはならないのだけれど。(引用此処まで)DysonのThe scientist as rebel2007-01-30 10:17:20 | 物理学(引用此処から)The scientist as rebelという昨年末に出たDysonの著書を拾い読みした。Dysonは物理学者で数学者である。特に有名なのは量子電気力学のくり込みの理論でこれはその当時の量子電気力学の集大成とも言うべきものであった。天才Feynmanの理論をFeynmanよりも早く紹介したので、これによってようやくFeynmanの独創的な理論が一般に理解されるようになったといわれる。朝永、Schwinger、Feynmanの3人は1965年にノーベル賞を受賞したのが、Dysonを受賞者に入れなかったことによってノーベル賞の選考委員会はミスをしたのではないかとC.N.Yangはいっている。これはノーベル賞は3人以内という規定に従ったためと思われるが、それにこだわる必要はなかったのではないかというのがYangの言い分らしい。Dysonは発散型の学者で宇宙の研究や物性論や原子炉の研究とかもやっている。もともとイギリス人であったが、その後アメリカの市民権を得た。彼の新しい著書は主に書評であるが、OppenheimerとかWienerとかのことも書いてあって週刊誌的興味からはとても面白い。Oppenheimerは優れた学者でもあったが、世間的には原爆製造を指導した人として知られている。彼の業績では今ではブラックホールの研究が際立っているのだが、彼は少しもブラックホールが存在するかどうかに関心がなかったように思えたという。これはどうしてかとDysonは考えているが、このブラックホールの研究は有名なBohrとWheelerの核分裂の理論と同じphysical reviewの号に出ていたので、そちらの方が主に関心を引いたためではないかとDysonは推測している。前出のYangによれば、Oppenheimerがもう少し長生きしていれば、ノーベル賞を受賞できたのではないかという。Openheimerが原爆製造に係わった点についてはいくつかの彼の評伝では優れた学者ではあったが、独創性が足らなかったということを自分で自覚したためではないかとの推測がなされており、それはわたしも十分ありうることだと以前に書いたこともあるが、その辺の評価は間違っていたのかもしれない。Wienerの方は新しく3つ目の彼の伝記が出た機会に書いた書評のようだが、Wienerの妻のことが大きな焦点の一つになっている。これは二人の娘との関係でもあるし、Wienerが共同研究者との交際を絶つという影響もあった。その点に新しい焦点があたっており、天才も妻の精神的な異常性に振り回されたらしい。私のように英文を読むのが下手なものでもDysonの文章は構文的には難しくないと思う。単語は知らないのが多く, 辞書を引き引きではあったが、久しぶりに睡眠不足になるこのごろであった。(引用此処まで)Heufieber(hay fever)2007-02-23 11:05:28 | 健康・病気(引用此処から)Heufieber (Germ.) (hay fever Eng.) といえば、Heisenbergが若いときにこのHeufieber がひどかったというのは有名である。彼が量子力学への端緒を開いたのは1925年5月であったが、その直前にとてもひどいHeufieberにかかり、先生のBornに申し出て休暇をとり、療養のため草木がなく岩でごつごつした北海の孤島Helgolandへ出かけた (Helgolandはいつかテレビで見たのでは海岸の岩壁が赤い色をした島だった)。そこで、Heisenbergは奇妙な代数(それは数学で知られたマトリックスであることをBornが後で発見した)を考え出し、そしてそのときに量子力学のモデルとして用いた非調和振動子のエネルギーが保存することをちゃんと証明できた。それでHeisenbergは真理の一端を確かに掴んだという確信をもった。この辺の話は彼の自伝『部分と全体』(みすず書房)に詳しい。この創造体験はDysonの自伝『宇宙をかきみだすべきか』(ダイアモンド社)に出ているTomonaga, Schwinger, Feynmanの量子電気力学を統一的に理解できたときのDysonの体験と状況はまったく違うが、その内的な感情と感覚は似ている。しかし、ここで述べたいのはHeufieberとは何かということである。いつだったかNHKの英語会話の放送を見ていたら(英語だからhay feverと綴るのだろうが)、これを花粉症と訳していた。それで、はっとしてやっとHeufieberが身近なものになったのだが、日本では花粉症は鼻水がしきりにでるが、熱は出ない。その数年後だったが、入試の監督に駆り出されたときに、同僚のS先生が顔を赤くして花粉症に悩んでいた。その方は7,8年をアメリカで暮らした方でhay feverについて彼の体験を話してくれた。それはもちろん花粉が原因なのだろうが、40度近い熱が何週間も続いてとても不快なのだという。それでやっとわかった。Heufieberは枯草熱と訳されているが、熱が出るところが特徴のようだ。Heufieberの枯草熱という訳語を理解できなくて、花粉症という訳語である程度わかったつもりになっていたが、結局元へ戻ったわけである。なんでも実際に生活をしてみないとわからないことがあるものだ。(2011.4.13付記) ドイツ語ではPollenallergieという語があり、これは文字通り「花粉アレルギー症」である。(引用此処まで)Grossのノーべル賞受賞講演2007-04-28 12:35:48 | 物理学(いんよう此処から)最近号の素粒子論研究4月号に2004年度のノーベル賞を受賞したGrossの講演の翻訳が載っている。まだ全部読み終わったわけではないが、興味深い。Grossはいま漸近的自由という用語で知られているnonabelian gauge 場の量子論をつくった人の一人である。ノーベル賞はあと二人の人と共同受賞だが、彼がその中で一番年上でかつ見通しもしっかりしていたと思われる。また、もう一人受賞者のPolitzerはS. Colemanの学生で漸近的自由をもつnonabelian gauge 場の量子論をつくれるかというのは、Colemanから出された課題であったらしい。PolitzerとColemanの関係は電弱理論のくりこみを課題として’t Hooftに与えたVeltmanと似たような関係にあるようにも思われる。もっともVeltmanは’t Hooftとノーベル賞を共同受賞しているのである程度報われたが、それでもVeltmanの心理的葛藤は大きくて、彼はその後オランダから離れてアメリカの大学に勤めた。現在ではまた故国オランダに帰っているようだが、そういう心理的な葛藤の問題は量子力学の行列力学の創設者Bornにもノーベル賞を単独受賞したHeisenbergに対して同様にあったことはよく知られている。私の関心は武谷三段階論との関係からであるが、Feynmanのparton模型のことには言及してあるが、しごくあっさりとしたものでむしろscalingの成立する場の理論を求めたという観点がGrossの見解には強いように思われる。武谷三段階論の観点からは実体論的段階であるparton模型が重視されるのであろうが、Grossにはそういう感じが彼の語るところではない。現象論としてのscalingから直接にではないにしても本質論的段階としての摂動的QCDである漸近的自由な場の量子論がつくられたという感じがしている。もう少し詳しく知りたいところだ。しかし、実際にはparton模型という段階を経ていることがあっさりとした彼の言説の中にも認められる。(引用ここまで)武谷三男の年譜作成への試み2007-04-25 16:11:48 | 科学・技術 (引用此処から)武谷三男の年譜を作成することを始めたいと思うが、そのための文献としては「思想を織る」、「聞かれるままに」、「原子力と科学者」、「素粒子の探求」等が役に立つだろう。武谷は自分は湯川、朝永のような立派な学者ではないので自伝を残さないと言っていたが、実際に「思想を織る」とか「聞かれるままに」には自分の生い立ちについてのかなり詳しい言及がある。特に「思想を織る」は自伝的な色彩が強い。彼はそれでもこれは自伝ではないと言い訳をしている。湯川秀樹の詳しい年譜は故河辺六男さんがつくられて、「湯川秀樹著作集」に載っている。それに対応するものをつくりたいと思っているが、現在までのところ取り掛かることもできてはいない。8月には徳島科学史学会の総会があるので、それに向けた試論をそろそろ用意したいと思う。(引用此処まで)仕事とエネルギー2007-05-31 10:56:36 | 物理学(引用此処から)私の基礎物理学の講義では「ベキ関数の微積分」しか必要でないとこの間,講義で大見得を切ったのだが,ところがこれからの講義ではそれだけでは済みそうにない。すでに学生には講義ノートを渡してあるのだが,その内容を私はほとんど忘れてしまっていた。学生は私を嘘つきだという判断をするだろう。三角関数の微分は使わないにしても近いうちに対数関数とか指数関数とかの微分は使うことになる。それに仕事とエネルギーとの関係も学生にはまったくわかっていないらしい。これはそれについて話さなかった私が悪いのだろうが。簡単なデモ実験を来週にはやった方がよさそうだ。考えているのは棒でテニスのボールをおすという実験とか高い所からボールを落とす実験とかである。動いていることがエネルギーをもっていることであり、また高い所に物体があるということもエネルギーがあることになるということを示さなければならない。またバネはポテンシャルエネルギーをもっていることも話す必要がありそうだ。 力を物体に及ぼせば,エネルギーが増えるという事実もこれは日常の経験からはわかりにくい。というのは力は知らず知らずに摩擦力のように物体に働いているのにそういうもののない世界を物理学では考えていることをわかるのは難しいからだ。ああ、なんということだろう。日常生活における実際経験と理想化された物理学の世界とはかけ離れている。もちろん、物理の本を読んで勉強を初歩からしてくれれば、理解できるはずだが,そういうことをして来た学生は少ないらしい。(引用此処まで)慣性の法則2007-05-17 11:54:48 | 物理学(引用此処から)今週の基礎物理学の講義の中で短時間だけれど問題演習をした。そのときにわかっていると思って机間巡視をしていたら、ぜんぜん分かっていないことが判明した。それは慣性の法則のことである。これは物体に力が働かない限り、物体はその運動の状態を変えないという法則だが、これを皆さんほとんど理解していないらしい。確かに講義でしっかりとは教えなかったのだが、こういことは常識として物理を高校で学んだかどうかには関係なく知っていると思っていたのだが、そうではないらしい。だからこれを一から教えないといけないようである。力が働かないときには物体は一直線に運動するということを来週は強調して教えよう。等速度運動と等速運動とは同じではないといったくらいでは慣性の法則は定着しない。(引用此処まで)熱力学の第1法則2007-05-02 13:49:26 | 物理学(引用此処から)熱力学の第1法則で不思議なことの一つは内部エネルギーの微分は状態量で完全微分であるが,仕事と熱の微少量は状態量ではなく道筋に依存しているということで、これらは不完全微分と言われる。しかし、その二つの不完全微分の和d’W+d’Qが完全微分dUに等しいというのは不思議の一つであろう。ここで、d’Wとd’Qのdの上にプライムがついているのは不完全微分であることを表している。この不思議を理解するには このごろ有名になっている、田崎晴明さんの「熱力学」(培風館)を読めばいいのだろう。私もこの本を数ヶ月前に読んでいたが、熱がちょっと冷めて4章か5章で今読むのを止めてしまっている。しかし、この不思議の説明はムーアの「物理化学」の訳本の上巻に熱の力学的定義というところに書いてあり,それを読めば,たちどころにわかる。それによればちっとも不思議はない。田崎さんの本もそういう趣旨であるようだ。大学で昔に熱力学をならったときにdU=d’W+d’Q の形で熱力学第一法則を教わった記憶がない。同じ等式ではあるが,熱力学第一法則はd’Q=dU-d’Wとして習って,dUが完全微分だという認識はなかった。そういうことを知ったのは大学に勤めるようになって、M先生という物理の先生に入試の出題委員でご一緒したときにそれとなく教わったことであった。レオントビッチの『熱力学』(みすず書房)がテクストだったのだが、そのことをきちんと書いてあったのかどうか確かめたことがない。(引用此処まで)FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年6月30日2025年6月20日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すディーゼル: Rudolf Diesel、1858/3/18 – 1913/9/29^6/30改訂 こんにちはコウジです。 「ディーゼル」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)HONDA製エンジン 【スポンサーリンク】パリ生まれのディーゼルディーゼルはフランスの製本業を営んでいた父のもとに パリで生まれます。1870年の普仏戦争勃発に伴い、 多くのドイツ人はフランスから退去させられました。 ディーゼル一家もロンドンに移住します。12歳の時にルドルフは、ドイツ語の教育を 受ける為にアウクスブルクの母方の叔父と叔母の下へ 送られました。1873年にトップの成績で学校を卒業し、 工業学校を経てミュンヘン工科大学へ進みます。 そもそも、私は 太田氏の小説「ほかほかのパン」で ディーゼルの名前を思い出しました。ルドルフ・ディーゼルに対するイメージは ヤンマー社の彦根研究所で初期型のエンジン を見た時の思い出しかありませんでした。調べてみると、実の所は色々な足跡を残しています。 ルドルフ・ディーゼルは、ディーゼルエンジン の発明者として知られていますが、彼の足跡は その発明にとどまりません。以下に、 彼の主な業績や足跡を紹介します。ディーゼルエンジンの発明: ルドルフ・ディーゼルは、1892年に初めてディーゼルエンジンの特許を取得しました。これは内燃機関の一種であり、蒸気機関と比較して効率が高く、燃料の消費量が少ない特徴を持っています。ディーゼルエンジンは、自動車、船舶、発電所など広範囲にわたる産業で使用されています。技術革新の推進: ディーゼルは、燃料の消費を最小限に抑えつつエネルギーを効率的に変換する方法を探求しました。彼の発明は、産業革命以降の技術革新に大きな影響を与えました。産業界への貢献: ルドルフ・ディーゼルは、彼の発明を実用化するために努力し、産業界にその技術を普及させました。これにより、機械化された生産プロセスが可能となり、産業の発展に寄与しました。教育活動: ディーゼルは後進の育成にも力を注ぎました。彼はエンジニアリングの教育に熱心であり、多くの学生や技術者を指導しました。社会的影響: ルドルフ・ディーゼルの発明は、エネルギーの効率的な利用によって社会に大きな影響を与えました。それにより、交通手段や産業活動の発展が促進され、経済の成長に寄与しました。遺産と認識: ディーゼルエンジンの普及と彼の業績に対する認識は、 世界中で広く認識されています。彼の名前は、 エンジンや自動車産業、エネルギー分野など、 多くの分野で永遠に記憶されるでしょう。 私が彦根で見た遺産は一端に過ぎません。これらは、ルドルフ・ディーゼルが残した 主な足跡の一部です。彼の業績は、 現代の産業社会においても 重要な役割を果たしています。〆 テックアカデミー無料メンター相談 【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレス迄お願いします。 問題点には適時、 改定・返信をします。nowkouji226@gmail.com2024/04/05_初稿投稿 2025/06/30‗改訂投稿 舞台別の纏めへ 時代別(順)のご紹介 ドイツ関連のご紹介へ 電磁気学関係へ【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2024/4/12時点での対応英訳) Diesel born in ParisDiesel was born to his father who was a bookbinder in France. Born in Paris. With the outbreak of the Franco-Prussian War in 1870, Many Germans were expelled from France. The Diesel family also moves to London.At the age of 12 Rudolf received a German education. I went to my maternal uncle and aunt in Augsburg to receive the test. Sent. He graduated from school at the top of his class in 1873, After attending technical school, he entered the Technical University of Munich. In the first place, I In Mr. Ota’s novel “Hot other bread” I remembered the name Diesel.What is your impression of Rudolf Diesel? Early engine at Yanmar’s Hikone Research Institute All I could remember was when I saw it.If you look into it, you’ll find that it actually leaves a lot of footprints. Rudolf Diesel is a diesel engine Although he is known as the inventor of It’s not just his invention. less than, We will introduce his main achievements and footprints.Invention of the diesel engine:Rudolf Diesel patented the first diesel engine in 1892. This is a type of internal combustion engine that has higher efficiency and consumes less fuel than a steam engine. Diesel engines are used in a wide range of industries, including automobiles, ships, and power plants.Driving innovation: Diesel explored ways to efficiently convert energy while minimizing fuel consumption. His inventions had a major impact on technological innovation after the Industrial Revolution.Contribution to industry:Rudolf Diesel worked hard to put his invention into practice and popularized it in industry. This enabled mechanized production processes and contributed to the development of industry.Educational activities:Diesel also focused on training the next generation. He was passionate about engineering education and mentored many students and engineers.Social impact:Rudolf Diesel’s invention had a huge impact on society through the efficient use of energy. This facilitated the development of transportation and industrial activities, contributing to economic growth.Heritage and recognition:The spread of diesel engines and recognition of his achievements were Widely recognized all over the world. his name is, engines, automobile industry, energy field, etc. It will be forever remembered in many fields. The heritage that I saw in Hikone is just one part of it.These were left behind by Rudolf Diesel Some of the main footprints. His achievements are Even in modern industrial society plays an important role. FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年6月29日2025年6月19日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すハインリヒ・R・ヘルツ【電磁現象の実用化の為に送受信の装置を実現した先駆者】-6/29改訂 こんにちはコウジです。 「ヘルツ」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)電磁気学入門 【スポンサーリンク】ハインリヒ・R・ヘルツ【1857年2月22日生まれ ~ 1894年1月1日没】独逸のヘルツハインリヒ・R・ヘルツのRは ルドルフ(Rudolf )のRです。もともと、ヘルツは気象学に関心を持っていました。 1878年ミュンヘン工科大学では指導教官が気象学者のベゾル でしたが、そこではさしたる業績を残していないようです。 その後の師ヘルムホルツのもとで 液体の蒸発の論文や新型の温度計に関する 論文をまとめた程度だと言われてす。エーテルに対する理解の変遷所で、19世紀終わり頃迄は電磁波の伝達物質としてエーテルという物質を想定していました。確かに波を伝える伝達物質、別の言葉を使うと媒質といった物があり波は伝わります。水という媒質があり表面で波紋が伝わり、空気という媒質があって音が伝わる訳です。1881年にマイケルソンが実験でエーテルを否定したタイミングでヘルツはマクスウェルの方程式を再度考え直します。電磁波の存在を煎じ詰めて実用的なアンテナを考案しました。現代の整理された考え方によると、電磁波は真空中であっても伝わります。例えば太陽光は大気圏に届く前に真空中を伝わってくるのです。そこにはエーテルは存在しません。エーテルの仮定は観測にかからないばかりか、地球の自転運動・公転運動に対して説明がつかないのです。ヘルツのその他の業績 何よりも、ヘルツが大事な「時代を担っていた一人」である という点を強調します。その時代には実験が繰り返され、 電磁気学の分野で光と電磁波をつなぐ 理論がもやもや生み出されていたのです。 それを支える手段が模索されていたのです。ヘルツは電磁波を発信する 装置を開発して電磁波の送受信 の実験を繰り返しました。 マクスウェルの理論を現実の生活の中の仕組みと 関連させることを考えてみると、 電波を発信する仕組みと受信する仕組みが必要です。例えば、磁場中で帯電体が振動運動をした時に 電場と磁場が生成されて、光速度に近い 伝番をする筈です。それを観測にかけるには 「出来るだけ簡単で解析しやすい送信部と受信部」 を設計してシステムの構築をしなければいけません。 ヘルツはそうしたシステムを構築したと言えるのです。 その過程では例えば、 送受信間にガラスを置くと 電磁波が通じ難くなると確認しました。即ち、 電磁波というものがあって、それを使うと離れた 空間の間を送受信出来て、電磁波が透過しやすいもの とし難いものがあると示したのです。大きな一歩でした。そして、実験で人々にガウス・マクスウェル の理論を現実の世界とより近づけました。 ヘルツは周波数の単位に名を残しています。〆 テックアカデミー無料体験 【スポンサーリンク】以上、間違い・ご意見は 以下アドレスまでお願いします。 最近全て返事が出来ていませんが 全て読んでいます。 適時、改定をします。nowkouji226@gmail.com 2020/10/07_初稿投稿 2025/06/29_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 ドイツ関連のご紹介へ 電磁気関係へAIでの考察(参考)【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)Hertz of GermanyHeinrich R. Hertz’s R is Rudolf’s R.Originally, Hertz was interested in meteorology. At the Technische Universität München in 1878, the instructor was the meteorologist Bezor, but he does not seem to have made much of a mark there. It is said that he only compiled a treatise on liquid evaporation and a new thermometer under his teacher Helmholtz after him.At the transition of understanding of etherUntil the end of the 19th century,People had assumed The Existance,Ether as a transmitter of electromagnetic waves. surelyThere is a transmitter that transmits waves, or in other words, a medium, and waves are transmitted. There is a medium called water, and ripples are transmitted on the surface, and there is a medium called air, and sound is transmitted.Hertz reconsiders Maxwell’s equations when Michaelson denies ether in an experiment in 1881. He devised a practical antenna by decocting the existence of electromagnetic waves.According to modern organized thinking, electromagnetic waves are transmitted even in a vacuum. For example, sunlight travels through a vacuum before it reaches the atmosphere. There is no ether there. Not only is the assumption of ether unobservable, but it cannot explain the rotation and revolution of the earth.Other achievements of HertzSeparately, Hertz developed a device for transmitting electromagnetic waves and repeated experiments to send and receive electromagnetic waves. Considering the relationship between Maxwell’s theory and the mechanism in real life, we need a mechanism to transmit and a mechanism to receive radio waves. For example, when a charged body vibrates in a magnetic field, an electric field and a magnetic field are generated, and the number should be close to the light velocity. In order to observe it, it is necessary to design a “transmitter and receiver that are as simple and easy to analyze as possible” and build a system.It can be said that Hertz built such a system. In the process, for example, I confirmed that placing glass between transmission and reception makes it difficult for electromagnetic waves to pass through. In other words, he showed that there are electromagnetic waves that can be used to send and receive between distant spaces, making it easy for electromagnetic waves to pass through and difficult for them to pass through. It was a big step.And in his experiments he brought Gauss Maxwell’s theory closer to the real world. Hertz has left its name in the unit of frequency.〆FacebookXBlueskyHatenaCopy
2025年6月28日2025年6月18日に投稿 投稿者 元)新人監督 — コメントを残すJ・J・トムソン‗【電子の単位を明確にして同位体を示した優れた実験家】-6/28改訂 こんにちはコウジです。 「J・J・トムソン」の原稿を改訂します。主たる改定点はリンク切れ情報の確認です。 FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。 また、リンク切れ情報も目立っており、改訂。 細かい文章も再考しています。しっかり正確に。 そして沢山情報が伝わるように努めます。 (以下原稿)電子デバイス_echo_dot 【スポンサーリンク】J・J・トムソン【1856年12月18日生まれ~1940年8月30日没】その名はジョゼフ・ジョン・トムソン;Sir Joseph John Thomson。イギリスのJJトムソンは同位体の発見者です。指導者としてはラザフォード、オッペンハイマー、ボルンの師でした。JJトムソンは物理学の発展に大きく貢献しました。先ずケンブリッジ大学を卒業し、4年後にキャヴェンディッシュ研究所の所長を務めます。さらに、電子の実在を形にしていった一人でもあります。電子を発見したかについては異論があるかも知れませんがいくつかの洗練された実験で、JJトムソンは電子の単位量を決めて特定原子の同位体を示しました。トムソンによる電子の追及 【陰極線から電子線へ】J Jトムソンの生きた時代の大きな関心は電子でした。ニュートン力学が確立され、それをもとに色々な議論が進んでいた時代に、トムソンは原子核などの束縛を受けていない所謂「自由電子」の振る舞いを明らかにしていきました。トムソンが考えていた時代、初めは陰極線と電子線という言葉さえうまく使い分けられていなかったようです。電子が沢山放出されるような現象を作り上げて、飛んでくる電子を観測していくイメージです。電子線と呼んだ方が細いイメージです。一昔前の実験装置で「真空ガラス」で電子の流れが可視化できている姿を陰極線、最近の電子ビームで半導体加工の為に電子を飛ばす時には電子線と表現する人が多いです。物理の常識が変化して着目している点が変化しているとも言えます。原子核の周りをまわっているような「束縛された電子」は当時でも今でも観測の対象とすることはとても難しいのです。また、JJトムソンの子供も後に、電子の波動性を証明してノーベル賞を受けています。そして、いくつもの偉業を遂げJ・J・トムソンの亡骸はニュートンの墓のすぐ近くに眠っています。英国の生んだ偉人として。〆【スポンサーリンク】以上、間違いやご意見があれば以下アドレスまでお願いします。 時間がかかるかもしれませんが、必ずお答えします。 nowkouji226@gmail.com2020/09/14_初回投稿 2025/06/28_改定投稿サイトTOPへ 舞台別のご紹介へ 時代別(順)のご紹介 イギリス関係 ケンブリッジ関連 電磁気関係へ【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】(2021年9月時点での対応英訳)Its name is Joseph John Thomson[Sir Joseph John Thomson].This JJ Thomson of England is a discoverer of the isotopes. As a leader, he was a teacher of Rutherford, Oppenheimer, and Born, and contributed greatly to the development of physics.At first,JJ Thomson graduated from Cambridge University and will be the director of the Cavendish Laboratory four years later. And , He is also one of the people who shaped The Reality of Electrons. There may be some disagreement about the discovery of the electron, but in some sophisticated experiments,Joseph Thomson determined the unit amount of the electron and showed the isotope of a specific atom.J Thomson’s pursuit of electronsThe history of John Thomson and electronics is closely related. In an era when Newtonian Mechanics was established and various discussions were proceeding based on it, we clarified the behavior of so-called “free electrons” that are not bound by atomic nuclei. At the beginning, it seems that even the terms cathode ray and electron beam were not used properly.It is an image of observing flying electrons by creating a phenomenon in which a lot of electrons are emitted. It is a thinner image to call it an electron beam. It is very difficult to observe “bound electrons” that seem to orbit around the nucleus even now. The child of JJ Thomson also later received the Nobel Prize for proving the wave nature of electrons.And now, the corpse of JJ Thomson, who has achieved several feats, is sleeping in the immediate vicinity of Newton’s tomb. He was a great man born in England.〆FacebookXBlueskyHatenaCopy