に投稿 コメントを残す

P・V・ミュッセンブルーク
【ライデン瓶を発明し静電気の基礎を確立】-11/2・改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は中世に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。

ライデン瓶発電機
【スポンサーリンク】
【1692年3月14日生まれ-1761年9月19日没】
像画:1741年制作、画家 Hieronymus van der Mij、
所蔵:ライデン大学(University of Leiden)コレクション。The Linda Hall Library+1

 ライデン瓶を考案したミュッセンブルーク

その名はピーテル・ファン・ミュッセンブルーク

;Pieter van Musschenbroek。

ライデン瓶の発明で知られているオランダの物理学者です。

ポンプや顕微鏡、望遠鏡を作る職人の子として生まれます。

何より、最初の蓄電器であるライデン瓶

を作ったことで知られています。

ミュッセンブルークはラテン語学校でギリシア語・ラテン語・フランス語・ドイツ語などを修めた後、Leiden University(ライデン大学)で医学博士号(1715年)を取得しました。当時の学識の付け方は今と大きく異なっていたようですね。そして、ロンドンで当時の大物である物理学者ニュートンの講義を受けています。

その後、ミュッセンブルークは数学、哲学、医学、占星術の教授を歴任します。占星術は当時の教養の中で合理的な学問体系であると考えられていて、少し前の時代には王家に使えていたノストラダムスが天文学と占星術を修めていたという史実もあります。そして、ミュッセンブルークが1726年に刊行した「Elementa Physica」では広くニュートンの理論をヨーロッパに広めています。

 ミュッセンブルークと帯電現象の理解

その後、

静電気の力を中心にミュッセンブルークは関心を深め、ガラス瓶の中に充満した水の中で「帯電した棒」が反発しあう現象を形にします。非常に効果的な装置で水の中で実験を行うことで、重力の効果を浮力の効果を打ち消して微細な反発力をとらえられます。

また、支点を介した二つの棒が重力と直角方向に開いていくので
開いた角度がθの時に重力の分力が

Sinθで考えられるのです。

数学上、θが0の近傍ではSinθが殆ど0なのです。

上記の数学的な仕組みで、①荷電現象で生じた力と②ニュートンの明確にした力が釣り合い、平衡を保っています。その様子は少し感動できます。後の時代に動的な電磁気学が発展していきますがミュッセンブルークは静電磁気学の土台を作ったのです。

理論で期待される効果が目視で確認できます。浮力が重力を打ち消す効果と分力でSinθだけ考えればよい事情が相まって電気による微細な反発力が目に見える効果として現れます。開き角度が狭い時点では殆ど重力の効果がない形で帯電に起因する力が可視化出来るのです。

 

それまで帯電棒をこすり続けたりしなければ示せなかった「静電容量に起因する力」をミュッセンブルークによって示しました。後の電磁気学の発展に繋がる成果です。確かな一歩が残されたと言えるでしょう。



テックアカデミー無料メンター相談
【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2021/07/01_初回投稿
2025/11/02_改定投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
オランダ関係のご紹介へ
イギリス関係のご紹介

電磁気関係

AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年8月時点での対応英訳)

About Musschenbrook 

Its name is Pieter van Musschenbrook

; Pieter van Musschenbroek.

Musschenbruck is a Dutch physicist as we know for the invention of the Leyden jar. He was born as a child of a craftsman who makes pumps, microscopes and telescopes. He had best known for making his first capacitor, the Leyden jar.

He had become a Doctor of Medicine at Leiden University after studying Greek, Latin, French, English, German, etc. at a Latin school. It seems that his way of learning at that time was very different from that of now. And he had taken a lecture in London by the then-big physicist Newton.

After that, Musschenbrook was a professor of mathematics, philosophy, medicine and astrology. Astrology is considered to be a rational academic system in the culture of the time, and there is a historical fact that Nostradamus, who was used for the royal family a while ago, studied astronomy and astrology. And in “Elementa Physica” published by Musschenbrook in 1726, Newton’s theory had widely spreaded in Europe.

Method of Musschenbrook

After that, Musschenbrook deepened his interest around the force of static electricity, and formed a phenomenon in which charged rods repel each other in the water filled in a glass bottle. By conducting experiments in water with a very effective device, the effect of gravity can be canceled by buoyancy and with a minute repulsive force, we had be able to  capture.

Also, since the two rods that pass through the fulcrum open in the direction perpendicular to gravity, we had been able to consider the component force of gravity in Sinθ when the opening angle is θ.

Mathematically, Sin θ is almost 0 near θ of 0.

You can visually confirm the effect expected in theory.

The effect of buoyancy canceling gravity and the fact that only Sinθ needs to be considered as a component force combine to make a minute repulsive force due to electricity appear as a visible effect. When the opening angle is narrow, the force caused by charging can be visualized with almost no effect of gravity.

Work of Musschenbrook

Musschenbrook showed the “force due to capacitance” that could only be shown by rubbing the charging rod until then. It will lead to the later development of electromagnetism.

It can be said that Musschenbrook has left a solid step.

に投稿 コメントを残す

建部賢弘(たけべ かたひろ)_
【江戸時代に生まれ和算を大成_円周率 41桁】‐11/10改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は中世に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。

(以下原稿)

建部堅弘の数学
【スポンサーリンク】

 

【イメージ画(コウジ作成)】

和算の大成者である健部賢弘

建部賢弘は日本の数学者で、和算を大成した人物です。
江戸時代1664年生まれです。

関ヶ原の合戦が1600年で江戸太平の世が200年ほど
だったことを思い返せば建部はまさに江戸時代の中期
に活躍したと言えますね。

時は享保の時代で8代将軍の暴れん坊将軍「徳川吉宗」
の信頼を得ます。そして享保四年(1719年)「日本総図」
を作成します。また、
師である関孝和の業績に関する著作を多数残しました。

その内容は歴史的な記述というよりも内容に深く入り込んでいます。
いわば
数学の側面からの解説書であったようです。

関孝弘の考察を建部が補う 

そもそも、関孝和は沢口一之が残した『古今算法記』での
未解決問題を関さん独自の点竄術を使って解決していました。

そこで「関さんの悪い所」なのですが、
省略し過ぎで難しい本だったのです。

面白いのは関西系の数学者からツッコミ食らっていた訳です。

「頑固な江戸のおじいちゃん」が関西人から
ツッコまれていたのですが、建部さんは
丁寧な解説で「正しいでしょう?」
って感じの話し方が出来たのです。

きっと関西人たちも納得したはずです。
関西人であれ関東人であれスッキリした瞬間です。

そして、師匠の関孝和と建部賢弘と建部賢明の三人で
全20巻の「大成算経」をまとめました。

「大成算経」は当時の和算をまとめ上げた
秀作として評価され続けています。

円に対しての建部の業績

建部賢弘の大きな業績として円に対しての
定量的な追及があります。物凄い精度で
円について考えていったのです。

そもそも、精度の高い真円が描けたとしても
その円での半径とこの長さの関係は自明ではありません。

今でこそ、子供たちも3.14…と記憶していけるのですが
理論的に真円が描けたと考えた時の弧の長さは
「三角関数を使って級数を作り極限」
を求めていくしかありません。

三角関数、級数、極限といった概念を和算の中で
正確に使っていくデリケートさが求められるのです。

建部賢弘は丁寧に言葉を選んで誰でもわかる
表現をして未知の世界に挑んでいったのです。

建部以前の時代から使われていた正多角形を
円が囲む近似から考えていきました。

建部は逆に正多角形に円が囲まれた部分を想像して、
円の面積がA以上B以下であると証明していくのです。

そして円弧の長さがα以上β以下であると証明していったのです。

建部賢弘は、和算において円周率および円弧の長さの計算法を深め、
少なくとも小数点以下41桁近くまで算出したとされます。
江戸時代の和算家としては極めて高精度な数値解法であり、
当時としても突出した成果でした。

その他の建部の業績

その他にも建部賢弘は多くの業績を日本に残しましたが、
以下備忘録的に羅列します。

・指数1/2の二項級数の近似解法を紹介
・ディオファントス方程式の近似解法を紹介
・帰納法に基づいた数値解析の方法論を紹介
・無限の概念を「不尽」として導入
・三角関数の内容を表の形で明示

そして今、
日本数学会では建部賢弘特別賞や建部賢弘奨励賞
という形で若手数学者を奨励する賞を設けています。
建部賢弘のように若かりし人が
新しい分野を開いていく姿を数学会は期待しています。

🔍 補足・一次情報調査

  • 建部賢弘(たけべ かたひろ)は、寛文4年(1664年)6月(江戸)生まれ、
    元文4年(1739年8月24日)没とされています。 ウィキペディア+2コトバンク+2

  • 彼は、関孝和(せき たかかず)の門人であり、円理
    (円周率・円弧長さに関する理論)において大きな足跡を残しました。 mathsoc.jp+1

  • 記録によれば、建部賢弘は「累遍増約術」という方法を用い、
    円周率を多角形近似法によって詳細に求めたとされています。 mathsoc.jp+1

  • ただし「点竄術」「傍書法」などと関係づけて高次方程式や行列式にまで言及する部分については、
    明確に「行列式」という語を和算当時が使っていた史料は確認できていません。
    より慎重に「行列類似の考え方」「多変数未知数の処理法」などと記す方が学術的です。

  • 肖像画について:検索した範囲では、建部賢弘自身の確実なパブリックドメイン肖像画(和算史料中)を
    明確に確認できませんでした。「肖像画あり」として紹介されているものも画質・出典が限定的です。
    したがって、記事に掲載する場合は出典を明記し「出典:〇〇所蔵/利用許諾不明」など補記した方が安全です。




エンジニア転職保証コース
【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
時間がかかるかもしれませんが
必ず返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2022/10/06_初稿投稿
2025/11/11_ 改訂投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介

AIでの考察(参考)

(2022年10月時点での対応英訳)

Katahiro Tatebe was a Japanese mathematician and a great exponent of Japanese arithmetic.
He was born in 1664 during the Edo period.

The Battle of Sekigahara took place in 1600, and the Edo period lasted about 200 years.
If we recall that the Battle of Sekigahara took place in 1600,we underground the peaceful Edo period lasted for about 200 years
The time was the Kyoho period, and he was active in the MiddleEdo generation.

The time was in the Kyoho period, and Takebe gained the trust of the 8th shogun, “Tokugawa Yoshimune,” the ruffian and tyrant shogun.
And Tatebe produced the “General Map of Japan” in 1719.

In addition
Tatebe also wrote many works on the achievements of his mentor, Seki Takakazu.
The contents of these works are not so much historical descriptions as commentaries .
The contents of these works seem to have been commentaries from a mathematical point of view rather than historical descriptions.

Seki and Takebe

To begin with, Seki Takakazu solved the unsolved problems in Sawaguchi Kazuyuki’s “Kokin Keiken” by using Seki’s original point-falsification technique. However, the book was difficult to read because of the excessive “omissions” as “Seki’s bad point.

What is interesting here is the fact that Kansai mathematical persons had criticized Takebe . The stubborn old man from Edo was getting flack from the Kansai people, but

Mr. Tatebe was able to give a polite explanation and say, “Isn’t that right? He was able to speak in a way that made the Kansai people understand.

I am sure the Kansai people must convinced. It was a moment of great clarity, even for Kansai people.

And then, his master Seki Takakazu, Tatebe Masahiro, and Tatebe Tatebe Kenmei together produced a 20-volume book, “The Great Calculation Sutra,” which they had published in 1949.
The “Taisei Keikyo”,Everybody had highly regarded as an excellent work that summarized the Japanese mathematics of those time.

One of Tatebe’s major achievements was his quantitative pursuit of the circle. He thought about the circle with tremendous precision. Even if a highly accurate circle could be drawn, the relationship between the radius and the length of the circle would not be self-evident.

Nowadays, children can memorize the rate,3.14…, but theoretically, when a perfect circle is drawn, the length of the arc can only be obtained by using trigonometric functions to create a series and finding the limit.

Rate of circle

The concepts of trigonometric functions, series, and limits must be used with delicacy and precision in Japanese arithmetic.

Kenhiro Tatebe carefully chose his words to express them in a way that anyone could understand, challenging the unknown.

Tatebe began by considering the approximation of a circle enclosing a regular polygon, which had been used since the pre-Tatebe era, and then, conversely, imagined the area of a circle enclosed by a regular polygon, proving that the area of the circle is greater than A and less than or equal to B.

Takebe then used a circle with an arc length of at least α and less than or equal to B. He then proved that the length of the arc is greater than or equal to α and less than or equal to β.

How many obtained

Then, Kenhiro Tatebe obtained pi to exactly 41 digits. This was an outstanding achievement in numerical solving, even when considered on a global scale.

Other wiorks of Takebe

Kenhiro Tatebe also left many other achievements in Japan, which are listed below as a reminder.

Introduced a forbidden solution method for binomial series with exponent 1/2.
Introduced an approximate solution method for Diophantine equation.
Introduction of a methodology for numerical analysis based on induction
Introduces the concept of infinity as “inexhaustibility
・Contents of trigonometric functions are clearly stated in the form of tables.

Kenhiro Tatebe Encouragement Award.

The Mathematical Society of Japan now offers prizes to encourage young mathematicians in the form of the  Katahiro Tatebe Special Prize and the Katahiro Tatebe Encouragement Prize.
We hope to see young people like Katahiro Tatebe
to open up new fields of study.

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)

に投稿 コメントを残す

アイザック・ニュートン
【微積分を駆使して空間・時間・力を明確に定式化】‐11/10改訂

こんにちはコウジです。
半年ごとの既存記事見直しの作業です。
今回は中世に概念・手法を確立していった偉人を紹介します。
では、ご覧ください。内容を整理し、リンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。

(以下原稿)

「数学の世界史」
【スポンサーリンク】
【1642年12月25日 ~ 1727年3月20日】

物理学を変えたニュートン

物理学でのパラダイムシフトを語るうえで
外せない人物が、このニュートンでしょう。

物理学に於いてそれまでの常識を覆しました。
数学を駆使して物理学を大きく変えています。

今では世界で彼の名を冠した科学関係の雑誌が
刊行されている程です。
多くの人がその名と
業績を知っています。

イギリスで生まれたニュートンはケンブリッジでアイザック・バローに師事し研究をしていきます。アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)は、1642 年12 月25 日(新暦:1643 年1 月4日)に英国リンカンシャー州ウールストープで生まれました。 Encyclopedia Britannica+1 両親を幼くして亡くし、母方の祖母に育てられたという幼少期の状況は、後年の思索生活にも影響を与えたとされています。 ウィキペディア+1 その後、彼は ケンブリッジ大学 のトリニティ・カレッジに進み、師である アイザック・バロー(Isaac Barrow)との出会いを通じて数学・物理学の本格的研究を開始します。

特に大きな転機となったのは学位を習得する時期です。ペストがヨーロッパ中に大きな被害をもたらし、ケンブリッジも封鎖された時期があったのです。その時期にニュートンは地元に戻り思索の時間を多くとれたのです。その時間が1665年の万有引力発見に繋がります。

ニュートンの業績 

ニュートンが示したものは大きいのです。

力が「相互作用」であって小さなリンゴと大きな地球が

相互作用するように、全ての物質が相互に作用して、

互いに引き合う事象を見出しました。

ニュートンの著書「プリンキピア」の中で法則として体系化しました。その数学的定式化として微分の考え方を使って洗練された形を残し、その後の学問の発展に大きな基礎を築いています。

ニュートンの足跡 

何年もの後にマッハが「力学の哲学的批判史」の中でニュートン独自の空間概念の定式化を批判しますが、それもニュートンの整理・確立した空間概念、慣性の法則、などがあって初めて気づき得る話なのです。

特に神との関りにおいてニュートンは「人格神に対する信仰を固辞している」(ハイゼンベルグ「現代物理現象の自然像」(1955)より)という指摘が重要です。神を想定して「絶対空間」を想定している時点で、後世の相対的(人間的)思想とニュートンの理解体系は少しずつ乖離していくのです。

 実際にはアインシュタインが空間の相対性を明確化する中でも「基礎理論」としてのニュートン力学は依然として有益な理論なのですが、特に20世紀初頭の物理学の進展で適用範囲に大きな疑問を投げかけました。ニュートンの力学を土台の一つとして更に量子力学が出来てくるのです。

その他、ニュートンの業績は光学、微積分学、と尽きませんが空間・時間・力を明確に定式化した点が後世の我々にとっても、物理学にとっても何より大きいと思えます。

ニュートンは人々の物に対する考え方を大きく変えました。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点には適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2020/09/02_初版投稿
2025/11/10_改定投稿

サイトTOP
舞台別のご紹介
時代別(順)のご紹介
イギリス関係のご紹介
ケンブリッジ関連
力学関係

 AIでの考察(参考)

【このサイトはAmazonアソシエイトに参加しています】

(2021年8月時点での対応英訳)

The Newton

This Newton is a must-have person when talking about the paradigm shift in physics.Newton overturned conventional wisdom in physics. He uses mathematics to make a big difference in physics.

Nowadays, science magazines bearing his name have been published in the world. Many know the name and his achievements. Born in England, Newton will study under Isaac Barrow in Cambridge. In addition to having problems at home, Newton met Professor Isaac Barrow under twists and turns because he was small and weak. A particularly big turning point was when the plague caused great damage throughout Europe during his bachelor’s degree and Cambridge was also blocked. At that time Newton returned to his hometown and had more time to think about him. That time will lead to the discovery of universal gravitation in 1665.

Newton’s Work

What Newton has shown is great. He found that all matter interact and attract each other, just as forces are “interactions” and small apples and large earths interact.

It was systematized as a law in Newton’s book “Principia”. He used his idea of ​​differentiation as his mathematical formulation to leave a sophisticated form, laying a great foundation for the subsequent development of scholarship.

Newton’s Footprint

Years later, Mach criticizes Newton’s concept of space in “History of Philosophical Criticism of Mechanics”, but it is a story that can only be noticed with Newton’s organized and established concept of space, the law of inertia, etc. It is.

In addition, Newton’s achievements are not limited to optics and calculus, but the fact that space, time, and force are clearly formulated seems to be greater for us in posterity and for physics. Newton has changed the way people think about things.

に投稿 コメントを残す

学士院賞をもらった後で 【2021-08-02‗topクォーク_CP破れ 】

(以下は全て引用文章です)2021-08-02 ・

益川さんが学士院賞をもらった後で私の勤めていたE大学工学部に非常勤講師として来てもらったことがあった。

実はその前の年度に来てほしいと要請を研究会に出かけた友人のEさんにことづけしたのだが、その年度はすでに3件の非常勤講師を引き受けていて無理だから、つぎの年は優先して予定に入れておくという話だった。

そしてその約束を次の年度には果たしてくれたのであった。もっともそれは彼と小林さんがノーベル賞を受賞するずっと以前のことである。

たぶんそのころでもいつかはノーベル賞を受賞するのではないかと思われてはいたが、それでもまだ実験的なevidenceがまだだったと思う。

topクォークが発見されたのはそのあと数年してであったと思う。CPの破れの実験的検証とどちらが先だったか。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2025/11/09_初版投稿

サイトTOP

に投稿 コメントを残す

益川さんが亡くなった 【2021-07-30‗名古屋大学_81歳】

2021-07-30・

先日、Steven Weinbergが亡くなったと書いたばかりだったが、旧知のノーベル賞物理学受賞者の益川敏英さんが亡くなったと知った。

昨夜、ドイツ語のオンラインのクラスの途中で、妻がスマホを見て、教えてくれたので、知っていたが、今日の朝日新聞に大きな写真と共に記事が出ていた。

名古屋大学の大学院生たちだった益川さんたちが大挙して広島の私たちの研究室を訪れたことはまだ昨日のように覚えている。

ほとんど私と同年の人たちであった。みんな、なかなか多士多才の人たちであり、その中でも益川さんはみんなの尊敬を集めているらしいことは分かった。

それから何回か私が名古屋の会議にでかけたときにも、友人たちと帰りにどこかに夕食に誘っ てくれた。

もう何十年もあってはいなかったが、彼は偉くなっても人柄があまり変わるというふうではなかった。それはノーベル賞をもらった後でも変わらなかったと思う。

私よりは1歳年下の81歳だったという。戦争を空襲を受けたという経験で知っている最後の世代だった。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2025/11/09_初版投稿

サイトTOP

に投稿 コメントを残す

大栗博司さんの本を手に入れた 【2021-07-13_中西襄先生 】

2021-07-13 ・

注文していた大栗博司さんの書いた本を手に入れた。

『探求する精神』(幻冬舎新書)である。朝日新聞の書評で物理学者の須藤靖さんが激賞していた。

大栗さんには個人的な面識はないが、私たちの発行している「数学・物理通信」の送り先の一人である。大栗さんはもちろん京都大学名誉教授の中西襄先生の友人知人の一人であるから、中西先生からの推薦されたメールアドレスに加わっている。

数日はこの本で楽しむことができるであろう。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2025/11/09_初版投稿

サイトTOP

に投稿 コメントを残す

花粉症 【2021-02-22 ‗Heisenberg_Bornに休暇】

【以下は全て転載内容】2021-02-22 ・

私も典型的な花粉症である。

毎年2月10日前後から鼻がぐずぐずして鼻汁がとても出る。今年は早めに行きつけの内科の医師に処方してもらった薬のおかげかそれほどひどくはないとはいうものの。

もっとも今年は暖かい日もあるので、いずれひどい花粉症の症状に悩まされるであろう。

40歳すぎからの花粉症とのつきあいであり、はじめは花粉症という言葉も知らなかったので、風邪にかかったと思っていた。もっとも熱は出ない風邪だが。

hey feverという語がヨーロッパにはあることをそのころ知ったのだが、これが日本での花粉症にあたるとは知らなかった。

物理学者のハイゼンベルクが若いときからアレルギーに悩まされており、1925年の5月にもひどいHeyfeverにかかった。それでついていた先生のボルンに休暇をもらってHelgoland島に逃避の旅行に出かける。

ここで、ハイゼンベルクは量子力学の端緒となるアイディアをつかんで、それをすぐに論文にまとめる。

これを読んだ先生のボルンはそこで使われた数学が奇妙であることに悩むが、それはボルンが若い大学生のとき数学で学んだマトリックスであることに気がつく。

そして、ハイゼンベルクの論文を発展させる論文を学生のヨルダンと論文を書く。その後休暇から帰ってきたハイゼンベルクと3人でいわゆる三者論文 (drei M”annerarbeit) を書く。これが行列力学と呼ばれた、量子力学のはじまりであった。

これは1925年のことである。年が明けて1926年にはド・ブロイの発想に触発されたシュレディンガーの波動力学と呼ばれた、また別の量子力学の論文が発表されることになる。

天才は数学だって必要とあれば創り出す。ハイゼンベルクは行列の算法をそれが数学としてすでにあるということを、知らずに発明したのであった。

ボルンとかシュレディンガーとかは40歳代であったが、他のハイゼンベルク、ヨルダンとか、また行列力学でも波動力学でもない独自の量子力学を発展させたイギリス人の若い学者ディラックもハイゼンベルクの一年先輩の物理学者パウリもみんな20歳代の前半の研究者であった。

それで量子力学はKnabenphysik(少年の物理学)と呼ばれた。ちなみにKnabenは雅語であり、普通の日常生活で話される言葉としてはKnabenという語は使われない。日常での若者という意味のドイツ語はJungeである。

いうならば、Knabenはゲーテの詩に出てくるような語である。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2025/11/09_初版投稿

サイトTOP

に投稿 コメントを残す

コンプトン効果を連立方程式の問題にしたら 【2020-12-02_シルビィアの量子力学_ウラン235】

(以下は全て転載内容)2020-12-02・

以前から考えておりながら、なかなか実現しないのが高校数学の連立方程式の練習問題に、コンプトン効果のX線の波長のずれの計算をいれたらどうかと思っている。

これは朝永の『量子力学 I』(みすず書房)にこのテーマが取り上げられており、昔一生懸命計算した覚えがある。

なかなか計算ができなかったと思う。以前に購入していた『シルヴィアの量子力学』(岩波書店)があるのに日曜に気がついて、その個所だけを読んでみた。

面倒そうな式がたくさん出てはいたけれど、それほど難しい計算ではない。どうしてこの問題が難しいと思ったのかはわからない。

どうも数学では単に練習問題として出題される無味乾燥な問題が多いが、物理的にも意味のある演習問題であれば、解く人も身が入るのではなかろうかと思う。実は大学を定年退職した後の2年ほどはそういう方式のe-Learningのコンテンツをつくっていた時期があった(注1)。

このe-Learningのコンテンツは高校程度だが、理系の大学生で落ちこぼれそうになった人を救うという名目でつくっていた。だが、このe-Learningのコンテンツには三角関数が全く入っていないので、そこを何とかしたいと思いながら、まだうまく三角関数の部分が書けていない。

前につくっていた、e-Learningのコンテンツで中性子と原子核との衝突の問題を演習問題として取り上げたことがある。その問題を見て、技術者だった義弟が関心をもってくれた。これは中性子は水の原子と衝突して熱中性子になるための衝突回数だったかに関係している。現在の原発の中性子の減速材としては普通の水を使っている(注2)。

どうも原子力だとかだと今はちょっと時代遅れの技術的な問題であるが、80年前くらいはホットな問題であった。

(注1)これは私が80歳を越えていて、高校生のことを考えてはいないことの反映である。長い老後生活を楽しむために高校数学だって学んだら、興味深いのではないかという気持ちが強いからである。

現役の高校生さん、すみません。現役のときにはこういう楽しさはわからないのは仕方がない。

(注2)普通の水と普通でない水があるのかということだが、重水というのがある。これは陽子の代わりに重陽子D_{2}Oでできた水である。高速中性子の減速材としては普通の水(軽水)よりも中性子の衝突回数が少なく熱中性子になる。それで原子炉の減速材として重要視された(注3)。

第2次世界大戦中にノールウェイに重水工場があったが、ここをナチスドイツが差し押さえたというので原爆開発をし始めるのではないかという恐れをもった連合国がこの重水工場を襲撃するという映画がある。タイトルは「テレマークの要塞」だったと思う。

本当にあった話かどうかは知らない。重水は原爆の材料に直接になることはないと思うが、一般の人は原爆の材料と聞くと納得してしまうところがあるだろう。あくまで原子炉の減速材としての役割だと思う。

もっともその原子炉を動かしてプルトニウム239をつくれば、このプルトニウムは原爆の材料になる。日本でも原子炉がたくさん原発での稼働していたので、プルトニウムが蓄積している。これは原爆の材料となる。それで日本の多量のプルト二ウムの蓄積は国際的には日本は原爆をつくるのではないかと、大いに危険視されている。

(注3)ウラン235は核分裂するが、これは速度がおそい熱中性子といわれるものによる核分裂の断面積が大きい。天然のウランの99.3%はウラン238でこれは核分裂しない。だが、この多量にあるウラン238が中性子を1個吸収してプルトニウム239となると、これは高速の中性子によって核分裂する。

だから、原子炉の中にある一定の割合でプルトニウムを混ぜて高速中性子で核分裂を起こさせることが考えられた。これは普通にはプルサーマルと呼ばれている。

こうして蓄積したプルトニウムを消費しようと試みられている。ところが熱中性子による原子炉の制御に比べて高速中性子による原子炉の制御は難しいと言われており、それで原発への信用度が下がっているのが、現状である。

原発の燃料のウラン235を燃やした(化学反応で燃やす燃焼とはちがう)後の核廃棄物の半減期が数万年とかと言われているので、この核廃棄物を安全に2万年も保管するかということが問題になるのだが、これはまだまったく技術的に解決していない。

特に日本ではどうしたらいいかいいアディアがない。普通に考えられているのは核廃棄物をガラス状に焼結させて、地下深くに貯蔵することである。しかし、その2万年の間にその放射能に汚染された地下水がでて来ないという保証は誰もできない。原発はトイレ無きマンションだと言われる所以である。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2025/11/09_初版投稿

サイトTOP

に投稿 コメントを残す

小説『カード師』 【2020-06-09‗二重スリット_外村彰】

2020-06-09・

小説『カード師』は朝日新聞に現在連載中の新聞小説である。作者は中村文則さん。

カード師の私の体験を書いている小説だが、ある人の遺書を私が読んでいるというところらしい。

らしいとしか言えないのは私にはちょっと面倒な設定であるので、途中から読むのを諦めたからである。

ところが今日は光とは電子とかの波と粒子の2重性の話が出てくる。これは量子力学をまじめに学ぶ人は一度は聞くテーマである。

いわゆる二重スリットの話といえば、ああ、あの話なのと分かるくらい有名な話である。もっとも一般の人にこの話がどのくらいわかるかはわからない。

朝永振一郎さんのエッセイにこれを簡明に説明したエッセイがあった。「光子の裁判」というタイトルだったか。

光は波と思われていたが、これが粒子性をもつものであることは光電効果かとかCompton効果からわかってきた。それで20世紀初頭にこの光の2重性の解釈に物理学者は苦しむことになる。

古典物理学的に言うと粒子であるものは波動であるとはいえないし、波動であるものは粒子であるとはいえない。だが、量子力学では光とか電子はその両者の性質をもつものとしてとらえる。

それはどういう実験的観測をするかによる。粒子としての位置を測定すると、それは粒子性を示すし、光の運動量をきっちり定めようとする実験をすると波動性が得られる。だったかな?

光は波動でも粒子でもない、両方の性質を併せ持つものであるという理解である。これは古典物理学の範疇ではその両方の特性をあわせもつことなどできないが、量子力学ではそれが可能である。いわゆる弁証的統合的理解が必要である。

いわゆる、2重スリットでは2重スリットのところで光の位置を観測しないかぎり波として振る舞う。ここを通過した後で光を粒子として観測したときにはその過去が変えられるという風に小説では書いてあったが、2重スリットのところでは何の観測もしていないならば、それは波であったのか粒子であったのかは判定することが出来ないという風に考えると理解している。

この話は何十年も量子力学の講義をした来た私にもわからない。

私のいまの理解では波としての性質は確率波として理解しており、1個1個は粒子性をもっているのではないかと思っていたが、それも私の思い込みで観測しないときには光が粒子性をもっていたか波動性をもっていたかは何も確定的にいうことができないというのが公式の見解であろう。

こういう事実を目に見えるように実験してくれたのが亡くなった、外村彰さんであった(注)。

光の粒子は一個一個粒子のようにスクリーン(または写真フィルム)上にやってくるが、それが長時間露光されていると、波動的なふるまいの光の干渉縞が観測される。

(注) 外村彰 『目で見る美しい 量子力学』(サイエンス社)は量子力学のテクストとしてはあまり数式の多くない写真の多いすばらしいテクストである。

特に66-67ぺージの写真が今回の内容と関係している。この本の価格も2,800円とリーゾナブルである。

に投稿 コメントを残す

C. N. Yangの方は 【2020-03-03‗97歳_清華大学】

(以下全て転載内容)2020-03-03・

昨日F. J. Dysonが95歳で亡くったというニュースを書いた。一方、C. N. Yang(楊振寧)の方は現在97歳でまだ生きておられるらしい。

彼は若いときに中国国籍からアメリカ国籍をとったが、2005年にまた中国国籍を再度取得したとインターネットに書いてあった。

奥さんをなくされてか、54歳も年の離れた大学院生と再婚したと話題になったとあった。

Yangには何度か国際会議で見かけたり、大学院時代に当時在学していたH大学のコロキュウム室で会ったことがある。

小さな黒板に散乱論のセミナーの期日が書いてあったので、scattering theoryのセミナーをしているだねとO教授とY助教授にいわれていた(注)。

このときにはイギリス人のKemmerも一緒に来られていたと思う。Yangはきりりとひきしまった顔の人であった。

その後、1年後か2年後に大学院をおえてK大学の研究所で非常勤講師を数か月したが、ここで出会った女性の秘書さんがえらくこのYangさんのファンだと言われていたのが、さもありなんと思った。

Yangは勤勉な研究者であり、hard workerという定評がある。これはアメリカの物理学会というか、物理学者の世界ではよく知られた事実であったらしい。ベンジャミンフランクリンが大好きで、C.N. Franklin Yangという名前をつけておられる。

彼のお父さんは数学者であり、若いときにはアメリカに留学された方であったとか聞いた。

中国が中華人民共和国になった後も清華大学に勤められていたとかで、Yangはときどき人民共和国に帰省したりしており、どちらかといえば、中華民国よりも中華人民共和国寄りであると聞いたことがある。

これは共同研究者で、ノーベル賞の共同受賞者でもあった、T. D. Lee(李政道)が中華民国寄りであるのと対照的であるとか聞いていた。

(注)この訪問後にYangの自著の小さな本を研究室の図書に寄贈するために送ってこられた。こういう細かな配慮がYangが好かれる原因の一つであるのかもしれない。

【スポンサーリンク】

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近は全てに返事が出来ていませんが
問題点に対しては
適時、返信・改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2025/11/09_初版投稿

サイトTOP