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ゲオルク・レティクス_
【コペルニクスと天動説をまとめた】-10/6改訂

こんにちは。コウジです。半年ごとの改定ですが、
今回の改定は英訳部分の削除が主です。ご覧ください・
(以下原稿です)

天体回転論
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【1514/2/16 ~ 1574/12/4】


【画像出典:Wikipedia】
レティクスの『Narratio Prima』は、地動説を初めて
体系的に紹介した出版物として知られています。

天文学のパイオニア・レティクス

その名はGeorge Joachim Rheticus または
Rhäticus, Rhetikus と記します。

(外国の方ですから正確にコピペしました。)天文学者レティクス
(本名 Georg Joachim Iserin、後に von Lauchen / Rheticus を名乗る)は、
1514年2月16日、オーストリアのフェルトキルヒ(Feldkirch)
で生まれました。 Encyclopedia Britannica+1
幼少期には父親の医学職、ラテン語学校での教育を経て、チューリッヒ(Zurich)
での学びののち、1533年からウィッテンベルク大学に進学し、1536年に
修士号を取得。その翌年 1537年にウィッテンベルクで数学と天文学の
教授職
に就任します。 mathshist

レティクスは 1539年から1541年 の間、ポーランドのフラウエンブルク(Frombork)で
コペルニクスと共に暮らし、その理論を直接学びました。
mathshistory.st-andrews.ac.uk+2Encyclopedia Britannica+2

その滞在中にレティクスは Narratio Prima(1540年)を執筆し、コペルニクスの地動説
(heliocentric model)を紹介する働きをします。これにより、
「De revolutionibus orbium coelestium」が出版されるきっかけを作った重要人物となりました。
mathshistory.st-andrews.ac.uk+2Encyclopedia Britannica+2

また、彼は三角法(trigonometry)の分野でも業績を残しており、
Opus Palatinum de Triangulis
という六つ全ての三角関数(正弦・余弦・正接など)
を用いた表を含む著作を準備しました。これは彼の晩年後、
彼の弟子によって 1596 年に出版されます。 Encyclopedia Britannica+2mathshistory.st-andrews.ac.uk+2

あえて他の道具を考えていくとすれば当時は数に
神秘的意味を見出す思想(数秘術など)も広く存在していました。
しかしレティクスは、そうした象徴的理解ではなく、観測と数学に基づく
天文学の体系化を志向した点に特徴があります。

数秘術とはユダヤ教の発展と共に伝わってきた
「カバラ」と呼ばれる数の体系です。キリスト教の
色々な逸話に基づき
数字一つ一つに意味を付けていきます。
13や7が比較的幸運な番号であるといった次第に
一つ一つの数字に意味が加わるのです。

数秘術としてカバラは占い師が受け継いでいる体系です。
中世には王家の意思決定などの時に(真面目に)「議論」が
カバラの流儀で交わされて実際の祭り事が行われていました。

有名人ではミッシェル・ノストラダムスはフランス王家に仕え、
カバラの思想に基づき助言を与え地位を確立しています。
レティクスも何人かのパトロンのもとで研究を続けます。

レティクス時代の宗教と政治

また、当時の宗教は政治的にも力を持っていました。
特に中世以前はキリスト教の教えに従い
協会自治区が地方のあちらこちらにありました。

そうした経緯で、1096年から1303年にかけての期間には
聖地を確保するために十字軍が組織され、
大規模な軍事行動が行われました。

斯様な時代背景のもと、16世紀前半に
宗教改革をしたマルチン・ルター(1483- 1546)
によるコペルニクス(1473 – 1543)への批判が有名です。

宗教が科学に対する影響は大きいのです。ルターは
聖書の一節であるヨシュアによる

「日よとどまれ」(ヨシュア10:12~13)

という言葉に着目しています。

「地球が動いているのではなくて太陽が動いている」
という概念が聖書の中での世界観が天文学にも
適用される事が好ましい世の中だったのです。

実験と経験を重視して考える思考は
ルター思想の中では目立ちません。

ルターによれば千年以上前に著された
聖書の言葉が何より重いのです。

それだからルターはコペルニクスの
考えを受け入れていないのです。

教会が権威を持ち堕落しているとの批判的な観点から
ルターは
神の言葉としての「聖書の文言」
を大事にする聖書絶対主義を掲げました。

キリスト教の中でもプロテスタントとカソリックが
天文学に対して異なる見解を示します。

科学に対してキリスト教が偏見を持っていた事情は1973年に
ヨハネ・パウロ二世が「ガリレオ裁判の過ち」を
公式に謝罪する事態に至ります。

レティクスとコペルニクス

精力的にレティクスはコペルニクスを支持し続けました。
時代背景にも関わらず、レティクスは地動説(コペルニクス説)
を積極的に支持し、その普及に尽力しました。。

コペルニクスの死後まもなく発刊された
「天球の回転について」

において地動説を形にします。

後世の天文学者が大事に使っていく概念を作り上げたのです。
いわゆる「コペルニクス的転回」が大部分の人に
理解されなかった時代に、
レティクスは理解と復旧を進めました。

■前後リンク(必須)

◀ 前の人物:コペルニクス(1473年)
▶ 次の人物:ケプラー(1571年)

👉 レティクスは「橋渡し役」なのです。

■この分野の物理学者(革命の流れと天文学革命)

・プトレマイオス(天動説)
・コペルニクス(地動説の提唱)
・レティクス(地動説の普及)
・ケプラー(惑星運動の法則)
・ガリレオ(観測による実証)

〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
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適時、改定をします。

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2022/10/05_初版投稿
2026/10/06‗改訂投稿

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江崎玲於奈
【トンネル効果を応用してポテンシャル障壁を突破】-10/6改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

トンネル効果
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【1925年3月12日生まれ ~ 【ご存命中】 】


【Photo: Wikimedia Commons / CC BY-SA】

概説

江崎玲於奈は、先の世界大戦後の電子工学の発展を
象徴する物理学者の一人です。

2026年10月の時点で101歳を迎えており、日本のノーベル賞
受賞者の中でも最長寿の一人として知られています。

江崎は半導体デバイスの研究において、量子力学の
原理を応用した新しい電子デバイスを発明しました。

この功績により1973年、スウェーデン王立科学アカデミーから
ノーベル物理学賞を授与されました。

授賞式では、当時即位したばかりの
カール16世グスタフからメダルを受け取っています。

この国王にはちょっとした面白い逸話があります。
1976年の王室結婚式の披露宴で、スウェーデンの人気グループ
ABBA
が新曲を披露しました。それが後に世界的ヒットとなる
Dancing Queen
だったのです。

ノーベル賞授賞式で江崎がメダルを受け取ったとき、国王はまだ27歳。
そのとき同時に表彰された若い研究者の一人が

ブライアン・ジョゼフソン

でした。

1973年、江崎玲於奈は48歳。
その授賞式で彼は、

自然科学の成果を称える式典では、
人種や国境を越えて人々が集まってくる

という喜びを語っています。科学が国境を
越える営みであることを象徴する言葉でした。


江崎玲於奈の業績

デバイス工学において、ミクロな量子現象を利用することは
極めて重要です。電子デバイスの内部では、電子は
単なる粒子としてだけではなく、波としての性質も持っています。

江崎玲於奈は、この量子力学的な性質を利用して、従来の
半導体理論では説明できない現象を実験的に示しました。

彼が研究対象としたのは、ゲルマニウム半導体のPN接合でした。
通常の半導体では、電子はエネルギー障壁を越えない限り
接合を通過できません。

しかし江崎は、接合の幅を極端に薄くすると、
電子が量子的効果によって障壁をすり抜けることを発見します。

この現象は量子力学で

量子トンネル効果

と呼ばれています。

この原理を応用して彼が開発したのが

トンネルダイオードです。

このデバイスでは、電圧を上げると逆に電流が減少するという
**「負性抵抗」**という特殊な特性が現れます。

当時としては非常に斬新な発見であり、高速電子回路や
マイクロ波発振器などの研究に大きな影響を与えました。

この成果が評価され、江崎玲於奈はノーベル物理学賞を
受賞することになります。

江崎玲於奈と半導体超格子

江崎玲於奈の業績は、1973年のノーベル物理学賞で終わりません。
むしろ、その後の研究には、現在の半導体技術につながる重要な仕事があります。

その代表が半導体超格子です。

江崎は1960年代後半から、異なる半導体材料を人工的に周期的に積み重ねる
ことで、新しい電子状態を作り出す「半導体超格子」の研究を進めました。
これは自然界にある物質をそのまま利用するのではなく、
材料を人工的に設計することで、電子の振る舞いを変えようとする考え方です。

1969年には半導体超格子の概念を提案し、その後の研究では、超格子構造に
特有の負性微分伝導や共鳴トンネルなどの現象を実験的に確かめていきました。
こうした研究は、後の高速トランジスタや光デバイス、量子井戸構造などにもつながっていきます。

ここで、最初に紹介したトンネルダイオードとのつながりが見えてきます。

トンネルダイオードでは、電子が薄いエネルギー障壁を量子力学的に
通り抜ける現象を利用しました。そして半導体超格子では、人工的な
構造の中で電子のエネルギー状態を設計し、量子力学的な現象
そのものをデバイスの機能として利用しようとします。

つまり江崎玲於奈の研究には、「量子力学を理解する」だけでなく、「量子力学を利用できる半導体構造を人工的につくる」という流れがあります。

この考え方は、現在のナノテクノロジーや量子デバイスを考えるうえでも
興味深いものです。江崎の研究は、戦後の半導体物理学から、人工的に
量子状態を設計する現代のデバイス工学へ向かう流れの一部として見ることができます。


晩年の江崎玲於奈

江崎玲於奈は研究者として世界的に活躍した後、
日本の教育界でも重要な役割を果たしました。

筑波大学の学長を務めるなど、
日本の科学教育の発展にも大きく貢献しています。

研究者として第一線で活躍した後、教育者として次世代を育てる
「第二の人生」を歩んだ点も、彼の大きな功績の一つと言えるでしょう。

さらに晩年になっても科学政策や教育について積極的に発言し、
日本の研究環境について多くの提言を続けてきました。

2026年10月時点で101歳。
日本人ノーベル賞受賞者の中でも最高齢の一人として、現在もご存命です。

更新のたびに複数のサイトでご存命を確認していますが、これからも静かに
長生きしていただきたいと願わずにはいられません。

科学史において「量子力学を電子工学に橋渡しした人物」として、
江崎玲於奈の名前はこれからも長く記憶され続けることでしょう。

更に語りたい部分はありますが、江崎玲於奈氏はご存命中なのでここまでと致します。更新のたびに幾つかのサイトでご存命であると確認していますが、少しでも長生きして頂きたいです。書き足したい気持ちはありますが、半面で今は少しでも静かに長生きして頂きたいと思っています。

2026年10月時点で101歳。
最高齡の日本人ノーベル賞受賞者
としてご存命中です!!

関連する物理学者(前後の流れ)

◀ 前の人物:ジョン・バーディーン

▶ 次の人物:久保亮五

この分野の物理学者(量子力学・半導体・物性物理学)

量子トンネルから超伝導へ

江崎玲於奈の研究は、半導体の中で起こる量子トンネル現象を
実験的に捉えたところから、半導体デバイスの新しい可能性を開きました。

一方、トンネル現象は超伝導の研究とも深く関係しています。1973年の
ノーベル物理学賞では、江崎玲於奈、ブライアン・ジョゼフソン、
イヴァール・ジェーバーが固体中のトンネル現象に関する研究で共同受賞しました。

さらに物性物理学を統計力学から見ると、久保亮五の線形応答理論へも
つながります。電子の個々の量子力学的な振る舞いから、
物質全体の集団的な性質へと視点を広げることができます。

江崎玲於奈から現代の半導体へ

江崎のトンネルダイオードと半導体超格子の研究は、電子の量子力学的性質を
人工的な構造の中で利用するという方向へ発展しました。

この流れをたどることで、戦後のトランジスタ研究から、半導体超格子、
量子井戸、そして現代の量子デバイスへと続く物理学と電子工学の関係を考えることができます。

20世紀の物理学者や時代別の物理学者からも、江崎玲於奈を
起点として関連する研究者をたどることができます。

 

〆最後に〆

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以上、間違い・ご意見は
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必要箇所は適時、改定をします。

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2020/08/27_初版投稿
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(2021年11月時点での対応英訳)

Overview

Leo Esaki was a physicist from the previous World War era. She invented the electronic device and received the Nobel Prize from King Gustav of Sweden. She has a deep understanding of quantum mechanics and is creating devices that apply the tunnel effect that applies that principle. By the way, there is an anecdote that King Gustav was an interesting person, and when he invited ABBA to a wedding reception, he performed a new song, Dancing Queen, which became a big hit worldwide. Leo Esaki was the first person to hand over the Nobel Prize at the age of 26. Another was Brian Josephson. In 1973, Leo Esaki was 48 years old. So he rejoiced to the King, “At ceremonies celebrating the achievements of the natural sciences, people come from different countries” without race or discrimination. “

Achievements of Leo Esaki

It is very important to apply the micro character in device engineering. By applying the part of the target device where the quantum character appears prominently, it became possible to use functions that could not be predicted by conventional thinking. Specifically, when considering germanium, pay attention to its PN junction width. The wave-like aspect of the conduction electron there is related to the conductivity, and the quantum effect appears when the junction width is narrowed. It is an image of electrons passing through places that should not be able to pass when considering the potential. Imagine in real space and think of a system that somehow passes through the “potential wall”. It’s just a quantum effect.

Leo Esaki in her later years

After Leo Esaki was active as a scholar, she is active as an educator at the University of Tsukuba. She has a solid second life and she is very respectable. There is something I would like to talk about, but since Leo Esaki is still alive, I will end here. She wants to add more, but on the other hand she wants her to live a little quieter and longer.



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コペルニクス
【レクティスと地動説を推進して世界観を転換】-10/5改訂

こんにちは。コウジです。半年ごとの改定ですが、
今回の改定は英訳部分の削除が主です。ご覧ください・
(以下原稿です)

哲学者たちの天球
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【1473年2月19日生まれ ~ 1543年5月24日没】


ニコラウス・コペルニクスの肖像画(地動説の提唱者)

コペルニクスの若き時代

コペルニクスは、『天球の回転について』は、近代科学の出発点とされる
「コペルニクス的転回」を象徴する著作です。王領プロイセンに属する都市トルン
(現在のポーランド)
で生まれました。この地域は当時ポーランド王国の支配下にありつつも、
ドイツ文化の影響も強く、彼はラテン語・ドイツ語・ポーランド語といった
複数の文化圏にまたがる環境で育ちました。近代的な国籍概念が成立する
以前の人物であるため、単純に一つの国民に分類することはできません。

15世紀になると、地中海沿岸で芽生えた科学の精神がヨーロッパ全土へと広がり、
天文学の議論も多方面で活発に行われるようになります。

プトレマイオスの時代からコペルニクスの登場までには、実に千数百年の歳月が
経過していました。その長い間に人々の世界観は固定化していましたが、
コペルニクスはそれを根底から覆したのです。まさに「世界観の転換」と呼ぶべき出来事でした。

生活の面から見ると、コペルニクスは天文学だけに専念する職業に就いていた
わけではありません。日々は教会に関わる行政や宗教的な仕事をこなしながら、
研究を続けていました。若い頃にはイタリアに2度留学し、ボローニャ大学と
パドヴァ大学でそれぞれ法律と医学を学んでいます。当時、長距離の留学は
大変な覚悟を要する冒険でもありました。こうした多面的な経験が、
後の彼の学問的視野を広げる基盤になったといえます。


コペルニクスの経済的な仕事

コペルニクスは、聖堂参事会の財産管理を担う立場にもありました。
その職務の中で、彼は貨幣の流通に関する洞察を示し、後に
「悪貨は良貨を駆逐する」と呼ばれる原理を初めて明確に言葉にしたとされています。

良質な貨幣は人々の手元に留まり、流通するのは価値の低い貨幣
ばかりになる――という現象を指摘したのです。

これは経済思想史の中でも早期の重要な発見として知られています。

このように、コペルニクスは単に天文学者ではなく、経済や社会制度にも関心を持ち、
幅広い分野で知識人としての活動を行っていました。一方で、当時の情勢は不安定でした。
ドイツ騎士団がポーランド王領プロイセン内のヴァルミア地方へ侵攻し、
宗教と政治の対立が激化していく中で、コペルニクスの生活も変化を余儀なくされていきました。


コペルニクスの宗教的側面

コペルニクスの宗教的な側面を見てみると、彼が常に教会の批判にさらされていた
わけではありません。むしろ、彼は教皇に自らの著書『天球の回転について』を
献呈しており、一定の信頼関係が築かれていたことがわかります。

ただし、その後ガリレオの時代になると、この書は一時的に閲覧禁止となりました。
また、宗教改革者マルティン・ルターは「コペルニクスの考えは聖書の教えに反する」
と公に批判しています。地動説はまさに、世界観と信仰を揺るがす議論だったのです。

コペルニクス以前の時代には、プトレマイオスの著書『アルマゲスト』が天文学の常識を支配していました。彼は「もし地球が動いているなら、空を飛ぶ鳥や雲は西に流されるはずだ」と主張し、地球は静止していると結論づけました。しかし、当時はまだ「慣性」の概念が確立されておらず、地球が動いても空気や鳥が共に動くという理解がなかったのです。
コペルニクスはこの「常識」を超えて、新しい理論体系を築こうとしました。


コペルニクスと学問の成熟

1539年、ヴィッテンベルク大学の教授ゲオルク・レティクスがコペルニクスを訪ねました。面会の中で地動説の構想を聞いたレティクスは深く感銘を受け、その思想を後世に伝える決意を固めます。二人の間には、師弟としての信頼関係が生まれました。

興味深いのは、コペルニクスが学問の体系を切り開く中で「天体と人体の関係」に注目していた点です。当時、天文学は医学の一部として扱われており、天体の運行と人間の健康や気質との関連が信じられていました。
コペルニクスは医学の学びを通じて、天体に関する知識があまりに不正確であることに気づいたのです。
その「欠落」に気づいたことこそが、彼を天文学へと向かわせた出発点でした。

天体の動きを地動説的に説明するには、天動説では解けない「つじつまの合わない現象」がいくつも存在していました。レティクスはコペルニクスの理論に確信を深め、著作としてまとめ出版するよう強く勧めます。これが『天球の回転について』執筆の直接の契機となりました。


『天球の回転について』の出版と最期

1539年、レティクスは自身の師ヨハネス・シェーナー宛てに長文の手紙を送り、その中にコペルニクス理論の要約を記しました。その写しはグダニスクの出版業者によって刊行され、翌年「最初の報告」として世に出ます。これに勇気づけられたコペルニクスは、レティクスと共に理論を体系化し、草稿を完成させました。
2年後、『天球の回転について』の印刷が始まりますが、レティクスはライプツィヒ大学に転任するため
執筆の場を離れ、代わりに神学者アンドレアス・オジアンダーが校正を引き継ぎました。

しかしその間にコペルニクスは脳卒中を患い、半身不随となってしまいます。
完成した製本版を手にすることはできませんでしたが、伝えられるところによれば、
彼が息を引き取るその日に原稿の一部が届けられ、手に取ったまま静かに世を去ったといわれています。

享年70歳――彼の死とともに、地動説という新しい宇宙観が世界に姿を現したのです。

■前後リンク(天文学革命ライン)

◀ 前の人物:プトレマイオス(100年頃)
▶ 次の人物:ケプラー(1571年)

👉 完璧な流れ:
天動説 → 地動説 → 数式化

■この分野の物理学者(宇宙観の進化)

・ピタゴラス(数と宇宙)
・プトレマイオス(天動説)
・コペルニクス(地動説)
・ケプラー(楕円軌道)
・ガリレオ(観測革命)

〆最後に〆

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中嶋 貞雄
【日本で超電導現象の土台を作っていた人|低温電子物性】‐10/5改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
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超伝導
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【1923年6月4日生まれ ~ 2008年12月14日没】


【出典:東京大学物性研究所アーカイブ‗中嶋貞雄】

 物理学者の中嶋貞雄

映画監督で似た名前の方が居ますが
映画監督の方は貞夫と書きます。
物理学者の中嶋さんは貞雄と書きます。
中嶋貞雄は私が昔使っていた量子力学での
教科書の著者でした。(発行元は岩波書店)
そして、私がい今回記したエピソードを聞いたのは
指導教官との談話タイムでした。そんな風に
語り継がれていた物語です。

東京大学を卒業後に名古屋大で教授を務め、
東大物性研の所長を務めています。超伝導を中心とした
低温・物性物理学の理論研究で重要な仕事を残した方です。

超電導の議論史の中で有名な
エピソードがありますのでご紹介します。

 

BCS理論とは何か

話が前後しますが、中嶋貞雄の研究を理解するために、
超伝導理論の歴史を簡単に整理しておきます。

超伝導現象は1911年、ヘイケ・カメルリング・オネスによって発見されました。
しかし、その仕組みを微視的に説明する理論が登場するまでには40年以上の時間がかかりました。

1957年、ジョン・バーディーン、レオン・クーパー、J・R・シュリーファーによって
BCS理論が提案されます。BCSという名前は3人の姓の頭文字から来ています。

この理論では、結晶中の格子振動を介して電子同士に有効的な引力が生じ、
電子がクーパー対を形成すると考えます。そして多数のクーパー対が
秩序だった量子状態を形成することで、超伝導状態が説明されます。

通常、電子は同じ電荷を持つため反発し合います。
しかし結晶中では、格子振動(フォノン)を介して
間接的に引き合う状態が生まれることがあります。

この結果、

電子が集団的な量子状態を形成する

ことで電気抵抗が完全に消える、すなわち
超伝導が生まれると説明されました。この理論は現在でも

低温超伝導の基本理論として広く使われています。

このBCS理論が登場した時代に、中嶋貞雄も日本で超伝導の理論的問題を
研究していました。ここに、中嶋貞雄を読む面白さがあります。


中嶋貞雄関連の事実【ノーベル賞/超伝導とその研究】

1972年にバーディーン/クーパー/シュリーファーが
ノーベル物理学賞を受賞しています。バーディーンは

ノーベル物理学賞を2回受賞した唯一の人物です。


超伝導現象はヘイケ・カメルリング・オネスによって
1911年に発見されました。この現象の理論的理解には

約半世紀の時間がかかったのです。


日本では東京大学物性研究所が超伝導研究の
重要な拠点でした。中嶋貞雄はその所長も務めています。

バーディンと中嶋貞夫

中嶋貞雄は低温物理の物性に関わる研究をしていきました。
そんな中で名古屋で会議が開かれ、くりこみ理論を応用した
低温電子物性の議論をします。その話にアメリカのバーディーン
が着目し、講演内容のコピーを中嶋に求めました。

研究者の間で語り継がれてきたエピソードとして、私は指導教官の話を印象深く覚えています。

そこでは「中嶋の資料をバーディーンが英訳し、それを基にBCS理論を完成させた」
とまで断定することは避けたい
と思います。BCS理論は、
バーディーン、クーパー、シュリーファーの3人が1957年に発表した理論であり、
その形成には3人による一連の研究がありました。
むしろ興味深いのは、日本の研究者も同じ時代に超伝導の理論的問題を追いかけていたという点です。

中嶋はその後も超伝導の電磁応答について研究を続け、1959年には
超伝導体の反磁性や電気伝導について論じています。
そこではバーディーンらの研究との関係も明示されています。

つまり中嶋貞雄は、BCS理論を「作った人物」ではありません。しかし、
BCS理論が生まれた時代に、日本でも超伝導の理論的理解を進めていた研究者
として位置づけることができます。 

その時点ではカメリー・オネスの発見した超伝導現象は
実験的に示されていましたが理論的な説明はなされてません。

バーディーンはそれを作ろうとしていたのです。

個別電子のモデルはありましたがその電子が
集団励起していく姿は誰も想像していませんでした。

中嶋はこの議論は、当時まだ理解されていなかった
超伝導の理論化に向けた重要な示唆を含んでいました。
半導体の大家もまた、現象を追求したのです。
後に名古屋駅でバーディンにコピーを渡します。

バーディンは帰国後に英訳し参考として、共同研究者であるクーパー・
シュリーファーと共に考察を進め、クーパー対のアイディア
を盛り込み、BCS理論を完成させます。日本でなくアメリカ
で生まれた事が残念ですが、そうした議論の端緒は
日本でも芽生えていたのです。

 科学技術と我々

私は科学技術は人類が共有する財産だと思っています。
それだから、コピーを届けた中嶋貞雄の行為は素晴らしい
と感じています。これからの若い研究者達も知を共有して
育んで欲しいと思います。そうした行為が、
最後には日本の発展に繋がっていくと信じています。
そして、世界人類の発展に繋がっていくと信じています。

最後は信念とか、
宗教っぽい話になりましたが
感動・情熱から繋がる話
ではないでしょうか。

関連する物理学者(前後の流れ)

◀ 前の人物:ジョン・バーディーン

▶ 次の人物:レオン・クーパー

この分野の物理学者(超伝導・物性物理学)

超伝導の歴史から読む

オネスによる超伝導の発見から、
バーディーン、
クーパー、
シュリーファーによるBCS理論へ進み、
その周辺で中嶋貞雄らが理論的な研究を進めていきました。

さらに物質の応答を統計力学から考えると、
久保亮五の線形応答理論にもつながります。
超伝導と統計力学という異なる入口から、物質の集団的な
性質を理解する研究へ進むことができます。

東京大学物性研究所から見る中嶋貞雄

中嶋貞雄は東京大学物性研究所の第7代所長を務めました。
東京大学関連の物理学者と合わせて読むと、
日本の物性物理学がどのように発展してきたのかを追いやすくなります。

 

〆

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(2021年11月時点での対応英訳)

Physicist Sadao Nakajima

There is a movie director with a similar name, but I write that as Sadao. This is written as Sadao. Sadao Nakajima was the author of a textbook on quantum mechanics that I used to use. (Published by Iwanami Shoten) He is a professor at Nagoya University after graduating from the University of Tokyo, and is the director of the Institute for Solid State Physics of the University of Tokyo. He was a pioneer in theorizing superconducting phenomena. I would like to introduce a famous episode in the history of superconductivity discussions.

Birdin and Sadao Nakajima

Sadao Nakajima has been conducting research related to the physical properties of low temperature physics. Under such circumstances, a conference will be held in Nagoya to discuss low-temperature electronic properties applying the renormalization theory. Bardeen of the United States paid attention to the story and asked Nakajima for a copy of the lecture. At that time, the superconducting phenomenon discovered by Kamerlingh Ones was experimentally shown, but no theoretical explanation was given. Bardeen was trying to make it.

Nakajima must have been convinced of the direction of his research. He later gives a copy to Birdin at Nagoya Station. After returning to Japan, Bardeen will translate it into English, discuss it with his collaborator Cooper Schriefer, incorporate ideas for Cooper vs., and complete the BCS theory. It’s a pity that I was born in the United States instead of Japan, but the beginning of such discussions was also budding in Japan.

Science and technology and us

I think science and technology are a property shared by humankind. Therefore, I feel that Sadao Nakajima’s act of delivering the copy was correct. I hope that young researchers in the future will share their knowledge and nurture them. I believe that such actions will eventually lead to the development of Japan. And I believe that it will lead to the development of humankind in the world.

At the end, it was a belief or a religion-like story, but I think it is a story that connects with emotion and passion.

〆

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クラウディオス・プトレマイオス
【三角法を考案し天動説の体系を考案】-10/4改訂

こんにちは。コウジです。半年ごとの改定ですが、
今回の改定は英訳部分の削除が主です。ご覧ください・
(以下原稿です)

アルマゲスト
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【_83年頃 – 168年頃】

File_Ptolemy_1476_with_armillary_sphere_model (1)

MuseumPlus 5.1.681 Access 2010

【Photo:WikipediaCommons‗Ptolemy manuscript】

アルマゲストの著者プトレマイオス

(ラテン語表記: Claudius Ptolemæus)

天動説を強力に展開した書籍である「アルマゲスト」を
著したプトレマイオスは古代ギリシア世界の天文学者であり、
後の天文学の基礎を築いた人物です。

古代ギリシャ語では Κλαύδιος Πτολεμαῖος, と表記されます。
プトレマイオス後、中世のケプラーやガリレオの
登場する時代まで
プトレマイオスの学説は広く支持され
その後の神学の理論的な基礎にもなっていきます。

天動説は地球が世界の中心近辺にあり、太陽や月は地球の周りを
ほぼ円形上の軌跡をたどって移動しているという理論です。
今回取り上げているプトレマイオスは(自著の)アルマゲストで
天動説の理論的な枠組みを作り上げ
当時の
当時の観測精度に基づいて、星や惑星の位置を数学的に
説明できる天文体系を作り上げたのです。

また、プトレマイオスの体系の特徴は、
「周転円」と呼ばれる補助円を用いて、

惑星の複雑な動きを説明した点にあります。

これは一見複雑ですが、当時の観測結果を非常に高い精度で
再現できる
優れた計算モデルでもありました。

中世における天文学の進展

その後、多くの観測がなされ、
中世に至って「ティコ・ブラーェ」
等の観測データを
ケプラーが体系立てるまでは主に天動説が正しいと

思想の世界では一般に信じられていました。

ここで、私たちが普段「天文学」という言葉から
何を思い浮かべるのか、少し立ち止まって考えてみます。
天文学は慣れ親しんだ夜空を表し、非常に分かりやすいです。
ところが、その内容を考えていくと内容は理解してません。

特に定量的な点を考えてみると観測にかかるのは、
この時代は星の位置だけです。色と温度の関係も
分かりませんし、量子力学の背景が無いので
内部の推定も出来ません。 

多くの人は中学生くらいの時期に天文学を教養として
勉強しますが
大抵はほとんど忘れます。
特に定量的な表現は忘れます。

太陽の質量がどのくらいであるとか、
地球との距離がどのていどあるか

などの値を正確に言える人がどのくらいいるでしょうか。
1000人に一人もいないと思います。試験前に勉強して
後に忘れて、忘れたことは気にしません。
大事ではないのです。

それだから、

当時の観測精度においては、天動説は非常に高い説明力を持っており、
実用的な天文計算において広く用いられていました。

しかし後の時代に、より精密な観測と理論が発展するにつれて、
天動説は複雑な補正(周転円など)を必要とするようになり、
最終的には地動説へと置き換えられていきます。

この流れは、「より単純で精度の高い理論が選ばれる」
という科学の発展過程そのものを示しています。

プトレマイオスの業績

プトレマイオスの作り上げた三角法は重要です。
三角関数表作成とともに発展してきました。
三角法は今の三角関数の起源となっています。

プトレマイオスの三角法は、円の中に引かれた弦の長さと角度との
関係を数学的に整理したものでした。これは現在の
三角関数(サインやコサイン)の起源にあたります。
}もともと星の位置を正確に求めるための理論でしたが、今日では
建築や機械設計、測量など、現実世界のあらゆる分野で応用されています。

現在使われている三角関数が角度と弦の長さを使っている
関係の基本となっているので三角法は重要です。

現代では建築現場の角度計算や、航空機の設計、さらには
CG制作やAI画像解析にも三角関数が使われています。
古代の理論が今も生き続けているのです。

プトレマイオスの業績は、誤りを含みながらも、
「観測を数理で説明する」という科学の基本姿勢を確立した点で、
現代科学へと続く重要な礎となりました。。

■前後リンク(天文学の進化)
◀ 前の人物:アルキメデス
(天動説の数学的・哲学的基盤)

▶ 次の人物:コペルニクス
(地動説の提唱)

👉 哲学 → 数理 → 革命

■この分野の物理学者(強い導線)
■天文学・宇宙観の系譜

・アルキメデス(天動説の数学的基盤)
・プトレマイオス(天動説の完成)
・コペルニクス(地動説)
・ガリレオ(観測革命)
・ケプラー(軌道法則)
・ニュートン(万有引力)

〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2022/10/04_初回投稿
2026/10/04_原稿改訂

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アルキメデス
【兵器を発案し円周率を推定(幾何学的考察)した多彩な人】‐10/3改訂

こんにちは。コウジです。半年ごとの改定をいたします。

今回の改定は主に文末英訳部の削除で、大きな改訂はありません。

(以下原稿です)

天秤の魔術師
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【Photo:Wikipedia:Greek philosopher Archimedes in his bath – 16th Century carving.】
【紀元前287年頃 ~ 紀元前212年】

多彩な人であったアルキメデス

【英:Archimedes・希: Ἀρχιμήδης】
アルキメデスは、古代ギリシアの数学者で、物理学者で、
技術者で、発明家で、天文学者です。
古代においてのトップクラスの科学者といえます。
鉤爪の兵器や光線の兵器を発案する一方で、
多角形をつきつめて円周率を推定していたりしました。

円周率の概念を確立

具体的にはアルキメデスは、円の面積を正確に求めるために、
円の内側と外側に多角形を配置する方法を考えました。例えば、円の内側に正六角形を描くと、
その面積は必ず円より小さくなります。
逆に、円の外側に正六角形を描けば、
その面積は円より大きくなります。このように「内側の多角形」と「外側の多角形」で
円を挟み込むことで、円周率πの値を
徐々に絞り込むことができるのです。アルキメデスは最終的に96角形まで
拡張し、πが「3より大きく、約3.14より小さい」ことを導きました。
これは、極限の考え方に通じる極めて先進的な手法でした。 
六角形と五角形で考えていけばπの精度は更に向上。 
最初に思いついたアルキメデスは偉い!
という話なのです。 
浮力の概念の確立

そもそも当時、王冠の加工で疑惑が生じていました。混ぜ物をした疑惑で
金細工の職人が疑われました。理論で白黒つけようとなりました。そこで出てきた
アルキメデスが実験で立証したのです。「王冠と同じ質量の金塊を用意し、
これと王冠を天秤棒に吊るしてバランスが取れることを確認した後に、
天秤棒に吊るしたまま両方とも水を張った容器に入れました。」
今の問題は金の密度です。
混ぜ物があれば密度が変わる。空気中では天秤棒は、てこの原理によりバランスが
保たれています。てこの原理は水中でも変わらないので、もし金塊の体積と王冠の
体積が同じであれば、つまり金塊の密度と王冠の密度が同じであれば、
両方を水中に沈めても、天秤棒のバランスは保たれるはずである。
結果は水に入れたらバランスが崩れたのです。

王冠と金塊の密度が違います。
金細工師は不正を働いていました。
誰が見ても明らかです。同時に
アルキメデスはこうした立証の中で
浮力の原理を明確にしました。

金細工師は死刑になったと伝えられるています。

アルキメデスは古代ローマと同時代に生きた人で、
彼の人生の詳細は、死後ずっと後の歴史家たちが断片的な
記録をもとに再構成したものです。そのため、
事実と伝説が入り混じっている部分もありますが、それほどまでに
後世の人々が彼を尊敬し、語り継ごうとした証でもあります。
歴史上の人物は誰しも記録に頼る
部分があるのですがアルキメデス
の場合は特に死後何百年経ってから
編纂されたとされており、それ故に
不確かな部分が多いです。何より
アルキメデスは多くの仕事を残しました。

アルキメデスの評価

アルキメデスの友人や弟子たちが彼の伝記を残していなかったため、
彼の人生で唯一、確実に記録されているのは、戦場での最後の瞬間だけです。
しかしその一場面が、彼という人の「真剣な探求心」を象徴しています。
アルキメデスがローマ軍の
シラクサ攻囲戦で死んだことが、
彼の死に関する故事の記述から
正確に判明しているのです。
例えば、アルキメデスの生年は、
死んだ日時の年齢から逆算して
「推定」されています。
アルキメデスの関心は「美しい理論の構築」にありました。
純粋に数学的な論理体系を追求する姿勢がありつつも、
その理論が現実の技術や装置に応用できる点でも卓越していました。
つまり、理論と実践のどちらにも価値を見出し、
“考える科学”と“使う科学”を両立させた最初期の人物だったのです。
具体的にアルキメデスの原理とは、
「水や空気といった流体の中にある物体には、
押しのけた分だけ上向きの力が働く」
という発見です。
当時は“圧力”という概念がまだ存在していませんでしたが、
アルキメデスは、理論的な思考だけで“目に見えない力”の
存在を導き出しました。対象が占めている空間が、
まわりの流体に与える反作用を考え、それを
「浮力」として説明したのです。
観察と論理の両面から法則を見抜いた点が、
彼の真骨頂といえます。定式化された形としては、

「流体(液体や気体)中の物体は、対象となる物体が
【押しのけている流体の重量】と同じ大きさで
(ベクトル的に)逆向きの浮力を受ける」
という原理です。このような「自然を数と理論で説明する」という姿勢は、
後のニュートンへと受け継がれていきます。他、円周率や数列で

アルキメデスは仕事を残しています。

アルキメデス最後の逸話

話戻って、アルキメデスの亡くなる時のお話です。
その評判を知っていた指揮官・マルケッルスは、
アルキメデスには危害を加えないよう指示しました。
彼の家にローマ兵が入ってきた時、アルキメデスは
砂盤(今でいえばノートの役割)に描いた図(円形)
の上で、何か考えこんでいました。
入り込んだ部屋がアルキメデスの部屋だとは理解していない
ローマ兵が名前を聞きましたが、没頭していたアルキメデス
は無視し、そのことに兵は腹を立てアルキメデスを殺したのです。
アルキメデス最期の言葉は
「私の円をこわすな!」(Noli turbare circulos meos!)
だったと言われています。そのローマ人は命令に反し、
アルキメデスを殺害してしまったのです。

そして、後にアルキメデスを殺害してしまった事を
とても遺憾に思い、苦慮したと言われています。

そんなアルキメデスは、理論と実験を結びつけることで、
自然法則を“理解できるもの”へと変えた最初期の科学者でした。。

■前後リンク(数学→物理への流れ)

◀ 前の人物:
ピタゴラス(数による世界理解)

▶ 次の人物:
ガリレオ・ガリレイ(実験科学の確立)

👉 流れ:数 → 幾何 → 実験科学

■この分野の物理学者
■古典力学・数学物理の系譜

・ピタゴラス(数の思想)
・アルキメデス(幾何と力学)
・ガリレオ(実験科学)
・ニュートン(古典力学の完成)

👉

〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

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2022/01/06_初稿投稿
2026/10/03‗改訂投稿

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南部 陽一郎
【自発的対称性の破れを使って素粒子を研究|大戦時はレーダー研所属】‐10/3改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
主にリンクを見直しました。
現時点での英訳も考えています。
(以下原稿です)

対称性の破れ
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【1921年1月18日生まれ ~ 2015年7月5日没】
【引用:Wikimedia Commons‗南部陽一郎】

 戦時下の南部陽一郎

南部 陽一郎は第二次世界戦時に理学を志しました。
まさに時は戦時中。彼の頭脳は武器製造に貢献できる
と判断されて陸軍のレーダー研に配属されました。

戦時下ではどんな研究をしていたんでしょうね。
そして、ご本人はどんな気持ちだったのでしょうね。

戦争の前後で東京帝国大学で研究を進めます。
戦後、南部 陽一郎は朝永 振一郎のグループで研究を続けます。
そして物質を構成する原子を考えていき、
今に続く素粒子論を完成させていきます。

南部陽一郎と自発的対称性

 南部陽一郎の新規性は真空概念の再考でしょう。

「特定の対称性をもった物理系が特定の対称性を持つ物理系でも、エネルギー的に
より安定な状態が存在する場合、系は自発的にその真空状態へと移行」します。

BCS理論でのクーパ対生成はこの考え方

に従っています。電子対の生成が「安定」です。

中間子をひもとき、素粒子間の総合作用を考え、
その形成に関して実験事実と、つじつまの合う
理論を展開していきます。

そうした研究を重ね南部陽一郎は「自発的対称性の破れ」で
ノーベル賞を受賞しています。

南部陽一郎の話の組み立てとしては、
強磁性体の自発磁化状態(外部からの磁場無しで
内部磁気モーメントを揃えている状態)が温度上昇に伴い
磁化を失う状態を考え、ラグラジアンを巧みに使い
素粒子に適用しているのです。

また彼は量子色力学や紐理論でも成果を上げています。

南部陽一郎からヒッグス機構へ

南部陽一郎の「自発的対称性の破れ」は、その後の素粒子物理学を
理解する重要な考え方につながっていきました。

南部がこの問題を考えるきっかけの一つとなったのが、超伝導を説明するBCS理論でした。
超伝導状態では、電子がクーパー対を作ることで、通常とは異なる秩序を持った状態が現れます。
南部はここから、物質の中だけではなく、素粒子の世界でも「対称な法則から、実際の状態では
対称性が破れて見える」という現象が起こり得るのではないかと考えました。
CERNの解説でも、南部がBCS理論を理解しようとする過程から自発的対称性の
破れを素粒子論へ発展させたことが紹介されています。

南部にとって重要だったのは、真空を単なる「何もない空間」として扱わなかったことです。
物理法則そのものは対称性を持っていても、真空がその対称性を保たない状態を
選ぶことがある。これが「自発的対称性の破れ」という考え方です。

この考えは、南部・Jona-Lasinioによる研究や、その後のGoldstoneらの研究へと
発展しました。そして1960年代には、Anderson、EnglertとBrout、Higgs、
Guralnik・Hagen・Kibbleらによって、ゲージ理論における質量生成の仕組みが
発展していきます。現在この仕組みはヒッグス機構として知られています。

ここで南部の仕事とヒッグスの仕事を同じものとして扱わないことも大切です。
南部が素粒子論に導入した自発的対称性の破れという考え方が、後の理論物理学に
大きな影響を与え、その一つの重要な発展としてヒッグス機構が形成されました。

2012年、CERNのLHC実験で新しい粒子が発見され、その性質は標準模型の
ヒッグス粒子と整合しました。これはヒッグス機構を検証する大きな実験的成果でした。
一方で、それを「南部の理論そのものが2012年に証明された」
と単純化するのではなく、南部の考えが後の標準模型につながる
理論的な流れの一部になった、と捉える方が適切です。

南部陽一郎の仕事を読む面白さは、ここにあります。

超伝導という物質の問題から出発し、対称性を考え、
真空そのものを考え直し、それが素粒子の質量や標準模型へつながっていく。

一つの理論を完成させただけではなく、異なる物理現象の間に共通する構造を
見つけたことが、南部の研究を理解する鍵になるのです。


南部陽一郎の事実

① ノーベル賞‗南部は2008年 ノーベル物理学賞を受賞しました。
受賞理由は「自発的対称性の破れの発見」です。
【共同受賞者小林誠・益川敏英(CP対称性の破れ)】


② シカゴ大学‗南部陽一郎は長くシカゴ大学で研究しました。
ここはエンリコ・フェルミやマレー・ゲルマン
などがいた、理論物理の中心地です。


③ 弦理論への貢献‗南部陽一郎は弦理論
の初期研究にも関わっています。

弦の作用:Nambu–Goto actionとして知られています。

そういえば、

南部洋一郎は私が学生時代に使っていた教科書の著者でした。
その時点で米国の国籍を得ていた記憶があり、
研究者に対しての日本での待遇に疑問を抱いたものです。

私は理論物理学の研究室に所属して居ましたが、
卒業後も研究を続けて研究者として身を立てている仲間は
今では数えるほどしかいません。多くは私のように、
民間の会社に所属して物理学とは全く関係のない業務に従事しています。

少子化という流れもありますが名誉職としての教授に対して
日本社会の扱いは低いとも感じていました。
狭き門である事に加えて扱いが低いのです。
そして、南部陽一郎のような優秀な頭脳は
どんどん海外に流出していきます。 

それだから

南部 陽一郎がアメリカに帰化した気持ちは

少しは理解出来る気がしてしまうのです。

関連する物理学者(前後の流れ)

◀ 前の人物:久保亮五

▶ 次の人物:中嶋貞雄

この分野の物理学者(素粒子物理学・量子論)

  • 朝永振一郎 ― 量子電磁力学
  • 湯川秀樹 ― 中間子論
  • 南部陽一郎 ― 自発的対称性の破れ
  • 小林誠 ― CP対称性の破れ
  • 益川敏英 ― クォーク世代とCP対称性の破れ
  • マレー・ゲルマン ― クォーク模型・素粒子論

南部陽一郎を別の角度から読む

南部陽一郎は日本で研究しただけでなく、長くアメリカで
研究活動を続けました。
アメリカで活躍した物理学者
の流れから見ると、日本の素粒子物理学とアメリカの研究環境が
交差する人物としても見ることができます。

また、南部陽一郎は1921年生まれなので、
20世紀生まれの物理学者
の流れから読むこともできます。

東京大学での研究から戦後の素粒子論、そしてシカゴ大学での
研究へと歩みを追うなら、
東京大学関連の物理学者
も合わせてご覧ください。

〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレス迄お願いします。
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2020/09/10_初版投稿
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【2021年11月時点での対応英訳】

Yoichiro Nambu during the war

Yoichiro Nambu aspired to his research during World War II. However, the time is during the war. Judging that his brain could contribute to the manufacture of weapons, he was assigned to the Army’s Radar Lab. What kind of research did he do during the war? And what was your feeling? Before and after the war, he pursued research at the University of Tokyo. After the war, Yoichiro Nambu continued his research with Shinichiro Tomonaga’s group. And he thinks about the atoms that make up matter, and completes the theory of elementary particles that continues to this day.

Spontaneous symmetry with Yoichiro Nambu

Yoichiro Nambu’s novelty would be a rethinking of the vacuum concept. ・ “When a physical system with a specific symmetry considers various states with energy, it spontaneously settles into a more stable vacuum state.” Cooper pair production in BCS theory follows this idea. The electron pair generation is stable.

We will consider the overall action between elementary particles when using mesons, and develop a theory that is consistent with experimental facts regarding the formation of mesons. After repeating such research, Yoichiro Nambu won the Nobel Prize for “spontaneous symmetry breaking”. As for the construction of Yoichiro Nanbu’s story, considering the state in which the spontaneous magnetization state of the ferromagnet (the state in which the internal magnetic moments are aligned without an external magnetic field) loses magnetization as the temperature rises, the Lagradian is skillfully used. It is applied to particles. He has also been successful in quantum chromodynamics and string theory.

by the way,

Yoichiro Nanbu was the author of the textbook I used when I was a student. I remember he had American citizenship at that time
I was skeptical about the treatment of researchers in Japan. I belonged to the laboratory of theoretical physics, but now there are only a few colleagues who continue their research after graduation and become researchers. Many, like me, belong to a private company and engage in work that has nothing to do with physics.

Although there is a trend toward a declining birthrate, I also felt that the treatment of Japanese society was low for professors as honorary positions. In addition to being a narrow gate, it is not easy to handle.

that is why

I feel that I can understand the feeling that Yoichiro Nambu was naturalized in the United States.

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こんにちは。コウジです。半年ごとの改定ですが、
今回の半年では英訳部分を削除しています。大きな改訂はありません。
(以下原稿です)

ギリシア哲学史
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【Democritus painting public domain】

【BC460年頃 ~ BC370年頃】

 原子論の始まり

デモクリトスは、古代ギリシアの哲学者です。苗字と名前がありそうだから調べてみたら
見つかりません。この時代には未だ無いのかも知れません。そして、
何よりデモクリトスは初期の原子論を明確に示した人です。

デモクリトスはレウキッポスを師匠として考察を始め、その理論を確立しました。
ベルシャの僧侶やエジプトの神官に学び、果てはインドやエチオピアまで出かけて
見聞を広めたそうです。そんな活動的な人生を歩んでいて、仕舞いには生活に
困るようになってしまい、最後は故郷のご兄弟に扶養の世話になっていたそうです。
ただ死後はデモクリトスの著作物の公開朗読によって多額の贈与を受け
国葬されたと伝えられています。こうした話を聞くと人徳について考えてしまいますね。
デモクリトスはまさに「人が語り継ぎたい」と考えるような立派な人
だったのです。隣人にそう思わせる人柄だったのです。

デモクリトスと統計的総合作用

 デモクリトスは、世界を「見えるもの」ではなく「小さな粒(原子)」の集まり
として理解しようとしました。つまり、あらゆる物体を小さな単位の集合
として捉えるという考え方――後の統計的な思考の“原点”を作ったのです。
これは、世界を数や比率で説明しようとする最初の試みとも言えます。
ハイゼンベルグはその著書「現代物理学の自然像」(1955)において指摘しています。
「デモクリトスは次の命題を立てている。『甘いもの、または酸っぱいものは
ただ見かけだけであり、色はただ見かけだけであり、
実際にはただ原子と空間があるだけである。』 」

デモクリトスは統計的手法そのものを持っていたわけではありません。
しかし、「世界は多数の微小な粒子の集まりとして理解できる」
という発想は、後の統計力学へとつながる重要な視点でした。

すなわち彼は、「個々の粒子の集まりが全体の性質を決める」
という考え方の原型を提示した人物と見ることができます。

たとえば、私たちが「甘い」と感じる味覚も、ハイゼンベルクの理解では
“原子の動きと配置の組み合わせ”で説明されるものです。
つまり、
感覚や色、音の違いさえも、原子と空間の配置という
「統計的な構造」が作り出しているのです。

そして、デモクリトスの命題を解決するための
「原子と空間の新しい理論」をハイゼンベルグは全力で模索したのです。
食物は、燃やしてしまえば匂いも舐めた味もほぼ均一化されるのです。
人間生活の上で大事なものは対象物の、①特定時間での統計的法則性であり
また、観測する(または過去の事象の場合はパラメターを採取する)②タイミング
なのです。統計的な手法によって、私たちは「現実を最もよく説明する近似値
(=統計の解)」を求めることができます。そして、その解が本当に最適かどうかを
比較・検証するという科学の方法論が、ここから始まっていったのです。

また、上記①、②と最適解の判断が、会話の中で出来ていない人は
残念な人として扱われてしまいます。皆さん、少しでも良い議論を交わして下さい。

デモクリトスは哲学、詩学、倫理学、数学、天文学、音楽、生物学などで博識を示し、「知恵 (Sophia)」の異名を受けていました。私の視点では(物理学の観点から)原子論を創り出した点が特に重要です。

物質根源への定性的アプローチ 

物質の根元についての学説は、(後の)アリストテレスが完成させた四大元素(火・空気・水・土)が別途あって、時代ごとに原子論か四代元素かのどちらかが主流となって人々は根源物質を考えていました。デモクリトス以後、原子論は長らく反主流でしたが、ジョン・ドルトンの時代に彼によって優勢となりました。

【ドルトン以降の原子論は、デモクリトスの説と全く同じではありません。】ドルトンの時代には対象原子の質量やサイズに関する議論は無かったようですが、物質の根源物質を原子として考えて、元素の種類があると考えたのです。

現代では、原子は核反応によって別の元素に変わることもわかっています。しかし、日常生活で目にするあらゆる物質が、共通する最小単位「元素」の組み合わせでできている――この考えの原型を、デモクリトスはすでに語っていたのです。


化学的手段が無い時代に、こうした基礎知見を
確立できたのは驚くべき考察力です。

デモクリトスの洞察は、後の科学の根幹そのものに息づいています。
現代の量子物理学や統計力学も、実は彼の「原子と空間」
という発想を出発点にしているのです。いまもその知恵は、
私たちの科学的な思考の奥に静かに流れ続けています。

■前後リンク(古代→近代)

◀ 前の人物:
ピタゴラス(数による世界理解の始まり)

▶ 次の人物:
ドルトン(原子論の科学的復活)

■原子論・統計物理の系譜

・デモクリトス(原子概念)
・ジョン・ドルトン(近代原子論)
・ルートヴィッヒ・ボルツマン(統計力学)
・ジェームズ・クラーク・マクスウェル(分布則)
・ヴェルナー・ハイゼンベルク(量子論)

 

〆最後に〆



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竹内均(ひとし)
【科学の啓蒙活動を続けた初代Newton編集長】‐10/2改訂

こんにちはコウジです。

半年ごとの記事見直しです。
では、ご覧ください。内容を整理し、
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(以下原稿です)

科学雑誌NEWTON
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【1920年7月2日生まれ ~ 2004年4月20日没】

【出典:純歯科医院‗竹内均】
【https://www.jun-dental-office.com/2013/04/09/%E5%83%95%E3%81%AE%E5%B8%AB%E5%8C%A0-%EF%BC%91-%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%9D%87%E5%85%88%E7%94%9F/】

 竹内均のメガネ

私の中での竹内均さんのイメージは

特徴的な眼鏡かけたTVコメンテーターでした。

実際、
竹内均さんは文筆活動中もあんな感じだったそうです。
沢山本を出していますが、多くの著作はテープレコーダーに口述した内容を
秘書が文章化する形で執筆されていました。文章に起こす秘書さんが居て
一緒に作業します。独特の書き方ですね。

それでもお人柄から悪い印象は持ちません。
人から好かれる性格ですね。竹内均は自分に厳しくて
子供に優しい人だったと言われています。
独特の喋り口調が印象的で通り易い声で
聴きやすいリズムで人に語りかけていました。
子供向けの伝記を沢山、監修していて
「キューリー夫人伝」とか「エジソン伝」とかの表紙に
小さく竹内均の名前が入っていたりしました。
そんな啓蒙活動を考え続けて初代NEWTON編集長
として日本の一般向け教育書を作っていきます。
ちなみに、
非常に名前が似ていると思える方で
竹内薫さん
という方が居まして、私は時々混同してしまいます。
失礼。。。
ご本人がツイッターでコメしているように
「親戚ではありません(笑)」

 民衆と竹内均―科学を社会へ伝える

物理学の理解には個人の勉強も必要ですが、
学問の性質上、万物を人がどう考えるか
(モデル化していき理解するか)
という論点が欠かせません。

個人が理解するという考え方と同時に日本人が、
そして人類が理解していくというプロセスが欠かせません。

大衆にも理解出来る物理モデルが作れた時に理論は出来上がる
のです。ギブスの文章を書くときに協調しましたが
「数学者と物理学者の視点は異なる」のです。

数学は論理として完結しているモデルであれば
現実と対応が付かないでも問題がないです。
そんなものです。

物理学は絶えず現実と対応する理論を作らないと
意味がありません。特定の事例で有効でも
大衆が間違えやすい理論を構築できないのです。

竹内均はそういった民衆との対話をとても大事にしていました。

物理学は、研究者だけが理解していれば終わる学問ではありません。

自然現象を観測し、そこからモデルを作り、数式によって理論として
整理していくことが研究者の仕事だとすれば、そこで得られた
知識を社会へ伝えていくことも、科学が根付くためには重要です。

ここで注意したいのは、「一般の人が理解できること」が
物理理論の成立条件ではない
ということです。
物理学の理論は、観測や実験との対応、理論内部の整合性、
そして現象を説明・予測する能力などによって検討されます。

竹内均が果たした役割は、その科学的な理論を、
専門家だけの言葉に閉じ込めなかったところにあります。

難しい数式や専門用語をそのまま並べるのではなく、図や文章、
身近な例を使いながら、一般の読者が「何が起きているのか」を
イメージできるようにする。その仕事を長年続けたのが竹内均でした。

この意味では、寺田寅彦にも通じるものがあります。寺田寅彦も
物理学者でありながら随筆を通して科学と日常生活を結びつけて考えた人物でした。

ただし、竹内均の場合は、その活動をさらに大きな出版・編集の仕事へと
発展させました。その代表例が、1981年に創刊された科学雑誌Newtonです。

つまり竹内均を考えるとき、「地球物理学者」と「科学の伝え手」を
別々に考える必要はありません。
地球物理学を研究した経験を背景に、
地球や宇宙の現象を一般の人にも伝わる言葉へ置き換えて
いったことが、竹内均という人物の大きな特徴だったと考えられます。

研究によって自然を理解する。そして、その理解を社会へ戻していく。

竹内均の仕事は、この「研究と啓蒙をつなぐ役割」
として観ると分かりやすいでしょう。

科学雑誌NEWTONの創刊

竹内均 が日本の科学啓蒙で特に大きな役割を果たしたのが、
科学雑誌 ニュートン の創刊です。

1981年に創刊されたこの雑誌は、一般の読者に向けて科学
をわかりやすく解説することを目的としていました。

それまで日本では、専門的な学術誌か、あるいは子供向けの科学雑誌が中心で、
大人向けの本格的な科学解説雑誌はあまり存在していませんでした。

竹内は、複雑な理論でも図解やイラストを用いれば理解できる
という考えを持っていました。そのためNEWTONでは、
大胆な図解と分かりやすい解説を組み合わせる編集方針が採られました。

このスタイルは日本の科学出版に大きな影響を与え、
現在でも多くの読者に親しまれています。


竹内均の事実( 地球内部構造研究/プレートテクトニクス)

竹内均は地球物理学者として地震波・地球内部構造
の研究を行いました。地震波の解析から

地球の内部構造を理解する研究

を行ったのです。これは地球内部構造研究の重要分野です。


竹内均はプレートテクトニクスを日本で広めた一人です。1960年代~70年代に
この理論が確立した時、日本でも理解を広める役割を果たしました。

竹内均は東京大学の地球物理学教授でした。
研究者としての基盤はここです。

 竹内均と地球物理学

竹内均の仕事を考えていくと寺田寅彦の系譜です。
具体的には直接の講義・指導を受けていない孫弟子
にあたります。

地球物理学に関心を持って、特にプレートテクトニクス理論
を広く広めています。実際に地面が少しずつ動いていく様子
を伝える際に物理学者として地球の内部構造や
境界面での様子を伝えたのです。
深い知見を持って伝えたのです。

そして何より、

竹内均さんの独特の「優しい言葉」で伝えたのです。

関連する物理学者・科学者

竹内均の歩みは、近代日本の地球物理学から、一般社会へ科学を
伝える啓蒙活動へとつながっています。特に東京大学を中心とした
日本の物理学の系譜を見ると、次の人物とのつながりが見えてきます。

◀ 前の人物:久保亮五

▶ 次の人物:中嶋貞雄

この分野の物理学者(地球物理学・日本の物理学)

  • 寺田寅彦 ― 地球物理学と科学随筆
  • 田中舘愛橘 ― 日本の地球物理学・測地学の先駆者
  • 和達清夫 ― 地震学・地球内部の研究
  • 久保亮五 ― 統計力学・物性物理学
  • 竹内均 ― 地球物理学・科学啓蒙
  • 中嶋貞雄 ― 物性物理学・超伝導研究

東京大学から見る竹内均

竹内均を日本の物理学の流れの中で眺めるなら、
東京大学関連の物理学者
も合わせて読むと、人材と研究分野のつながりが見えてきます。

20世紀の物理学者として見る

1920年生まれの竹内均は、
20世紀生まれの物理学者
の流れの中にも位置づけられます。
同時代には久保亮五、南部陽一郎、中嶋貞雄などがおり、
研究分野の違いを比較することで、20世紀日本の
物理学の広がりを見ることができます。

分野から見る竹内均

地球物理学だけでなく、力学や日本の物理学の
歴史から竹内均を眺めることもできます。

力学関連の物理学者
では、寺田寅彦から竹内均へと続く
日本の物理学の流れも確認できます。

 

〆

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以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com

2021/07/04_初版投稿
2026/10/02_原稿改定

舞台別のご紹介へ
時代別(順)のご紹介
日本関連のご紹介
東大関連のご紹介
力学関係へ
量子力学関係へ
AIでの考察(参考)

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(2021年11月時点での対応英訳)

Hitoshi Takeuchi’s glasses

The image of Hitoshi Takeuchi in me is

It is a commentator with characteristic glasses.

In fact, he was like that during his writing activities.

I have published a lot of books, but the work is a tape recorder

It’s all about recording to. There is a secretary who wakes up in the text

Work together It’s a unique way of writing.

 

Still, I don’t have a bad impression from my personality. It’s a personality that people like. Hitoshi Takeuchi is said to have been a strict and child-friendly person. His unique speaking tone was impressive, and he spoke to people with an easy-to-listen voice and an easy-to-listen rhythm. I supervised a lot of biographies for children, and there was a small name of Hitoshi Takeuchi on the cover of “Mrs. Curie’s biography” and “Edison’s biography”. Continuing to think about such enlightenment activities, as the first editor-in-chief of NEWTON, I will make educational books for the general public in Japan as well.

People and Hitoshi Takeuchi

Understanding physics requires individual study, but due to the nature of scholarship, the issue of how people think of everything (modeling and understanding) is indispensable. At the same time as the idea of ​​individual understanding, the process of understanding by the Japanese and humankind is indispensable. The theory is completed when a physical model that can be understood by the general public is created. I collaborated when writing Gibbs’ writing, but “the perspectives of mathematicians and physicists are different.” If mathematics is a model that is complete as logic, there is no problem even if it does not correspond to reality. That’s it. Physics is meaningless without constantly creating a theory that corresponds to reality. Hitoshi Takeuchi cherished such dialogue with the people.

Hitoshi Takeuchi and Geophysics

Considering Hitoshi Takeuchi’s achievements, it is the genealogy of Torahiko Terada. Specifically, he is his grandchild who has not received direct lectures or guidance. He has an interest in geophysics and is particularly widespread in plate tectonics theory. As a physicist, he told us about the internal structure and boundaries of the Earth when he actually told us how the ground was moving little by little. He conveyed it with deep knowledge. And above all, I conveyed it with Hitoshi Takeuchi’s unique “gentle words.”

〆

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こんにちは。コウジです。

半年ごとの改定ですが、改訂点は英訳の削除です。

(以下原稿です)

ピタゴラスの定理100の証明法
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【BC582 ~ BC496】


【出典:Wikipedia:ローマのカピトリーノ美術館にある
サモス島出身のピタゴラスの胸像】

謎に包まれたピタゴラスの人生

ピタゴラスは古代ギリシャの数学者です。

皆さんもピタゴラスの定理(三平方の定理)

という言葉は聞いた事があると思います。

初等幾何学で出てくる話で、色々と応用が効きます。

同じギリシャのデモクラテスは朗らかなイメージ
なのに対し、ピタゴラスのイメージは暗く
謎に包まれています。現在のトルコ西部にあたる
サモス島周辺で生まれたとされています。そして、

その後は現代に余り情報が残っていません。そもそもピタゴラスが
組織したと言われた教団は秘密主義を徹底して、組織内の話を外部に漏らす
ことを厳しく禁じました。実際に秘密結社ですから掟に背いた時は罰を受け、
海に突き落とされたとも言われています。

何度聞いても残酷な話しみたいで、その時代の人は泳げなかったから
死刑に相当しました。ピタゴラス教団の強い秘密主義のため
内部の教義や活動内容は外部にほとんど伝えられていません。
そのため、掟に背いた場合の厳しい処罰があったとする他の記述も残されて
いますが、
具体的な内容については後世の伝承による部分が多く、
史実としては慎重に扱う必要があります。

斯様な(かような;こんな感じの)秘密主義の教団
だったので、ピタゴラスの肖像画も見れませんし、遺稿も無いそうです。

我々がピタゴラスの人物像を垣間見れるのは2次情報で、教団との
関わりが無くなってきた御弟子さんの話とか著作物なのです。
そうした2次情報によると、ピタゴラスの若い時代にはエジプトや
インドを旅したりしていて、幾何学、天文学、算術、比率、宗教密儀、
ゾロアスター教などに関わりピタゴラスは知識を深めました。

 ピタゴラスの独自性

ピタゴラスの考え方で特徴的なのは、「あらゆる事象には数的な秩序が内在
している」と考えた点です。つまり、音の高さ、星の運行、人間の体のバランス
といった自然現象の背後には共通する数の法則があるという発想です。

例えば身近な所では「血圧が高いから塩分控えないといけないねぇ。」
といった会話が出来ているのは有益です。昔の人には分からない会話です。
「定量的に物事を理解・整理してみよう。」という発想は凄いのです。 

確かに後の理解で整理すると、その時々に万物には質量があり、
「固体・気体・液体」といった状態があり、空間上で占めている体積があって、
その時の温度があります。

その後の学者たちは、長さ・重さ・時間・温度などを数で表し、自然現象の
法則を定式化していくことになります。ピタゴラスは、そうした
「現象を数値で表す」という科学の基礎的な視点を最初に提示した
人物の一人と言えるでしょう。そうした議論の土壌をピタゴラス
は作り始めたと言えます。これは、人間が世界を「感覚」ではなく
「数量」で理解しようとした最初の一歩であり、後の科学や哲学の
発展にとって非常に大きな進歩でした。なお、
「ピタゴラスの定理」自体は彼以前の文明でも知られていた可能性があり、
ピタゴラス学派によって体系化されたと考えられています。

 

特に音楽では、弦の長さの比が音程の違いを生むことを実験的に示し、
「数で美や調和を説明できる」という画期的な考えを提示しました。
これは後の天文学や物理学にもつながる発想でした。

ピタゴラス学派の活動と顛末

エジプトでは幾何学と宗教の密儀を学び、フェニキアで算術と比率の知識を得て、
ゾロアスター教の司祭のもとで学んだといわれています。そうした修行・研修
の時期を過ごした後にピタゴラスはイタリア半島を拠点とし活動しています。

色々な人々をピタゴラスは言動で惹き付け、やがては沢山の弟子を集めピタゴラス学派(ピタゴラス教団)と呼ばれる団体を組織します。この組織にはいつしかパトロンが出来たりした時期もあったのですが、組織に対抗する人も出てきたりして、最終的には暴動が起きてしまいピタゴラスも殺されてしまったようです。物凄く価値のある定式化を行った人があっけない最期を遂げています。ピタゴラスは輪廻転生を考えて菜食主義で健全な体を作ろうと努力したそうです。しかし人徳のない最期を遂げているのです。暴力反対。

〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
以下アドレスまでお願いします。
最近全て返事が出来ていませんが
全て読んでいます。
適時、改定をします。

nowkouji226@gmail.com


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