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リーゼマイトナー
【Lise Meitner_静かなる天才が刻んだ核物理学の礎】

austria-Credit:pixabay

こんにちはコウジです。
「リーゼ・マイトナー」の原稿を投稿します。

別途、改定点はリンク切れ情報の改定です。
FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。
細かい文章も再考しています。しっかり正確に。
そして沢山情報が伝わるように努めます。
(以下原稿)

ユダヤ系オーストリア人のマイトナー

【Lise Meitner、1878年11月7日 – 1968年10月27日】

リーゼ・マイトナーは、原子核分裂の発見に深く関わりながらも、
ナチス政権下の亡命により歴史からその名を一時消された科学者です。
彼女はオットー・ハーンとの共同研究を通じて、
ウランが中性子で分裂する現象を理論的に解明しました。

しかし、功績は認められず、ノーベル賞も彼女を素通り。
女性であり、ユダヤ人という立場が壁となりました。
それでも彼女は科学の誠実さを貫き続け、
晩年にはようやく世界が彼女の偉業に気づき始めました。

静かに、しかし確かに世界を変えたマイトナーの人生は、
科学への真摯な姿勢と、困難な時代を生き抜いた強さの象徴です。

リーゼマイトナーの幼少時代ー音楽と政治の家に生まれー

リーゼ・マイトナーは「核分裂」という概念を初めて名づけた、
物理学界のパイオニアです。しかしその才能は、音楽と
政治に囲まれたウィーンの家庭で静かに芽吹いていました。
女性に高等教育の道が閉ざされていた19世紀末、
彼女は困難を乗り越え、自らの好奇心と粘り強さで
科学の世界へと飛び込んでいきます。


ユダヤ系家庭に育った少女の知的な環境

リーゼはウィーンで、弁護士の父とピアニストの母のもとに
生まれました。家は経済的に恵まれてはいませんでしたが、
音楽と知性にあふれた家庭環境でした。父は政治的にも
積極的で、作家や思想家を家に招くことも多く、
家族はまるで小さな文化サロンのような生活を送っていました。


女性に学問の道が閉ざされた時代の葛藤

当時のオーストリアでは、女性はギムナジウム(大学進学
を前提とした中等教育)に進むことができませんでした。
リーゼも例外ではなく、高等小学校にしか進学できませんでした。
それでも彼女は自然科学への情熱を持ち続け、
逆境のなかで知識を吸収し続けます。


核物理学への第一歩、そしてドイツへ

リーゼは努力を重ね、最終的にはウィーン大学で博士号を取得し、
1907年にはベルリンへ。そこから核物理学の世界に飛び込み、
放射線研究や新元素の発見、さらには「核分裂」
の命名という歴史的功績に至ります。

ベルリンでは約30年間研究に没頭しましたが、
ナチスの台頭により、やがて亡命を余儀なくされます。

物理学への道のりー偉大な師ボルツマンとの出会いー

リーゼ・マイトナーが物理学の道へ進む決断を下すきっかけとなったのは、ウィーン大学で出会ったルートヴィッヒ・ボルツマンの講義でした。女性の進学が困難だった時代、彼女は情熱と努力によって道を切り開いていきます。


教職の道を選びつつ、心は物理学へと傾いていた

高等小学校を卒業したリーゼは、当時女性でも就ける数少ない職業のひとつであるフランス語教師を目指し、試験に合格して収入を得ました。しかし彼女の心は、なおも学問に強く惹かれていました。ちょうどその頃、女性の大学進学を求める社会的な動きが高まり、1897年には「マトゥーラ」と呼ばれる資格試験に合格すれば女性にも入学が認められるようになります。家族の支援を受け、彼女は再び学問の道に歩み始めました。


人生を変えたボルツマンの講義との出会い

1902年、ウィーン大学に赴任した熱力学の権威ルートヴィッヒ・ボルツマンの講義は、マイトナーの運命を大きく変えることになります。彼の講義は情熱とユーモアにあふれ、聴く者を魅了しました。マイトナーも例外ではなく、熱心に通い詰め、後年になっても「人生で最も感動を受けた講義だった」と語っています。この出会いが、彼女に物理学者としての道を決意させたのです。


博士号取得と進路の不安、そしてウィーンを離れる決意

1906年、リーゼ・マイトナーはウィーン大学で博士号を取得。物理学で女性としては2人目の快挙でした。放射能の研究に興味を持ち、α線やβ線の研究を行い論文も発表します。しかし、指導者ボルツマンの自死や、マリ・キュリーへの助手志願の不成立など、将来への不安が彼女を襲います。ウィーンでは女性研究者としての展望が見えず、彼女はついにドイツ・ベルリンへの移籍を決断するのです。

プランクとの出会い、そして戦争の中で見つけた使命

ウィーンからベルリンへ——マイトナーは物理学への情熱を胸に、ヨーロッパ科学の中心地に飛び込みました。そこでは、偉大な理論物理学者マックス・プランクとの出会い、信頼できる研究仲間オットー・ハーンとの運命的な邂逅、そして戦争に翻弄されながらも科学者としての使命を見出していく日々が待っていました。


プランクとの再会がもたらした新たな学び

1907年、リーゼ・マイトナーはベルリンへと旅立ちました。目的は、かつて一度会ったことのある物理学の巨匠、マックス・プランクの講義を受けること。ベルリン大学でのプランクの講義は、最初こそ「ボルツマンに比べて無味乾燥」と感じたものの、次第に彼の人間性に惹かれていきます。プランクはマイトナーを自宅に招くなど親しく接し、彼女もまたプランクの誠実な人格を深く尊敬するようになりました。


オットー・ハーンとの出会いと地下から始まる研究生活

研究の場を求めていたマイトナーは、実験物理学研究所の所長ルーベンスの紹介で若き化学者オットー・ハーンと出会います。年齢も近く、気さくなハーンに、マイトナーはすぐに心を開きました。しかし、当時はまだ女性の研究者が施設に立ち入ることが許されず、二人は研究所の地下にある木工作業所でひっそりと実験を始めることになります。

それでも二人はめきめきと成果を上げ、やがて1912年に設立されたカイザー・ヴィルヘルム研究所に移籍。最初は無給の客員研究員としてのスタートでしたが、プランクの計らいで助手に任命され、ようやく32歳にして安定した収入を得ることができました。1913年には正式な研究員に昇格し、キャリアは軌道に乗り始めます。


戦争がもたらした試練と科学者としての使命感

1914年、第一次世界大戦が勃発し、オットー・ハーンは予備兵として前線へ召集されます。マイトナーは一人ベルリンに残り研究を続けますが、翌年、自らもオーストリア軍のX線技師として戦地ポーランドに赴くことを決意。負傷兵の治療に携わり、戦争の悲惨さを目の当たりにします。

しかしやがて彼女は、「本当に自分が役立てる場所はここではないのではないか」と疑問を抱くようになります。科学者としての責任感が再び彼女を突き動かし、「私に与えられた義務は、カイザー・ヴィルヘルム研究所に戻ること」だと確信するに至ります。戦地での活動を経て、彼女は再び研究の最前線へと戻っていくのでした。

業績を積むマイトナー:研究者としての飛躍と試練

第一次世界大戦中も研究を続けたマイトナーは、1918年に新元素プロトアクチニウムを発見するという成果を上げた。この功績により、同年にはカイザー・ヴィルヘルム研究所の核物理部の責任者に任命され、ようやく安定した収入を得られるようになる。1920年にはハーンとの共同研究が終了し、マイトナーは独立した研究者として歩み始めた。さらに1922年には、女性にも大学教授の道が開かれたことにより、論文審査を免除されてベルリン大学の教授に就任。実力で道を切り開いた快挙であった。

ナチス政権下での苦悩と孤立

しかし1933年、ナチス政権の台頭によって研究環境は一変する。所長フリッツ・ハーバーの辞職に続き、マイトナーも教授職を失った。オーストリア国籍であったため直ちには排除されなかったが、周囲の助言と過去の業績への執着から、彼女はドイツにとどまることを選ぶ。55歳という年齢もあり、築き上げたキャリアを捨てての亡命には踏み切れなかった。

ウラン研究と再びの共闘

1934年、エンリコ・フェルミによるウランへの中性子照射実験に関する論文を読み、マイトナーは再び好奇心に火をつけられる。物理と化学の融合が必要と考えた彼女は、旧友であるハーンに共同研究を持ちかけ、快諾される。こうしてマイトナー、ハーン、そして助手のシュトラスマンとのトリオによる研究が始動。しかしその最中、オーストリアはドイツに併合され、マイトナーも正式にナチス体制下に置かれる。党員からの圧力も高まり、ついには「研究所の秩序を乱す存在」として辞職を迫られる。マイトナーは深く傷つき、「私を見殺しにした」とハーンに対して悲しみを吐露した。

命がけの決断:マイトナーの亡命劇

迫るナチスの影と脱出の決意でした。

1938年、オーストリアの併合によりマイトナーはナチス政権の直接支配下に置かれます。身の危険を感じた彼女は、親交のあるパウル・シェラー(スイス)、ニールス・ボーア(デンマーク)、ジェイムズ・フランク(アメリカ)から亡命の誘いを受ける。とりわけ甥のフィリッシュもいるデンマーク行きを希望したが、すでにオーストリアのパスポートは無効とされ、出国は困難を極めた。新たな旅券もヒムラーの指示で却下され、マイトナーは完全に追い詰められる。

救いの手と行き先の選択

そんな折、オランダの物理学者ディルク・コスターが救援に動く。資金を集め、職探しまで申し出た彼は、マイトナーを直接迎えにベルリンへ赴く。一方、スウェーデンのマンネ・シーグバーンの研究所からも受け入れの提案があり、マイトナーは最終的にスウェーデンでの再出発を決意する。生きるために、そして研究を続けるために。

偽装旅行と命懸けの脱出

1938年7月12日、ハーンから形見の指輪を受け取ったマイトナーは、「休暇旅行」を装いベルリンを後にする。翌日、コスターとともに列車でオランダへ向かうが、途中でナチスの国境警備隊に期限切れのパスポートを検分され、車内は緊張に包まれた。奇跡的に追及を免れた彼女は、無事にオランダ・フローニンゲンに到着。その後スウェーデンへと渡り、亡命生活を開始する。命からがらの脱出の裏で、ハーンとシュトラスマンによる実験は続き、マイトナーとは手紙でやり取りが続けられた。

亡命先でも輝いた知性:研究を続けるマイトナー

一通の手紙から始まった歴史的発見

1938年、スウェーデンに身を寄せていたマイトナーに、旧友ハーンから驚きの手紙が届く。「ウランに中性子を照射すると、なぜかバリウムが現れる——これは一体何なのか?」。その異常な実験結果は従来の物理学の枠組みでは説明がつかず、甥のフリッシュも最初は実験ミスを疑った。しかしマイトナーは「ハーンがそんな初歩的な間違いをするはずがない」と断言。やがて2人は、これが原子核の“分裂”だと見抜き、世界で初めて「fission(核分裂)」という言葉を定義した。

科学者としての倫理、爆弾との距離

核分裂の発見は、後に原爆開発へとつながっていく。だが、マイトナーは一貫して兵器開発への関与を拒否する。1943年、イギリスの科学者から協力を求められたときも、彼女は「爆弾に関わるつもりはありません」ときっぱりと断った。人類のための科学と、破壊のための科学の間で、彼女は明確な一線を引いた。発見者でありながら、破壊には手を染めなかったマイトナーの姿勢は、今も多くの科学者に問いを投げかけ続けている。

戦後の再会、そして決別

1946年、マイトナーは一時的にスウェーデンを離れ、客員教授としてアメリカに滞在したのち帰国。同年12月にはノーベル賞授賞式のためストックホルムを訪れたハーンと再会する。しかし、戦後のドイツをどう見るかで2人の意見は激しく対立。ハーンは祖国支援を訴えたが、マイトナーは「科学者たちはヒトラー政権に十分に抵抗しなかった」と厳しく指摘した。彼女はドイツに戻ることを拒み、生涯を通じて“人間としての責任”と“科学者としての良心”を貫いたのである。

原子核の研究

マイトナーはプロとアクチュニューム・ベータ崩壊・核分裂の分野で大きな成果を上げています。

〆最後に〆

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2024/04/02_初回投稿
2024/04/08‗改訂投稿

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Jewish Austrian Scientist: Lise Meitner

(Lise Meitner, November 7, 1878 – October 27, 1968)

Lise Meitner was a scientist whose name was, for a time, erased from history due to her exile under the Nazi regime, despite her deep involvement in the discovery of nuclear fission.
Through her collaborative research with Otto Hahn, she theoretically explained the phenomenon of uranium splitting when struck by a neutron.

However, her achievements went unrecognized—she was passed over for the Nobel Prize.
Being both a woman and Jewish became insurmountable obstacles.
Even so, she remained steadfast in her scientific integrity, and in her later years, the world finally began to acknowledge the significance of her work.

Meitner’s life, which quietly yet undeniably changed the world, stands as a symbol of sincere devotion to science and the strength to endure a difficult era.


Lise Meitner’s Early Life — Born into a Home of Music and Politics

Lise Meitner was the first to name the concept of “nuclear fission,”
a true pioneer in the field of physics.
Yet her remarkable talent quietly blossomed in a Viennese household surrounded by music and political discussion.

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