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湯浅年子(ゆあさやすこ)
【_1909年12月11日 – 1980年2月1日日本で物理教育を始めた女性物理学者】

東大

こんにちはコウジです。
湯浅年子」の原稿を投稿します。

別途、改定点はリンク切れ情報の改定です。
FanBlog閉鎖に伴いリンクは無効としてます。
細かい文章も再考しています。しっかり正確に。
そして沢山情報が伝わるように努めます。
(以下原稿)

 

湯浅年子はパリのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所、
CNRS(フランス国立中央化学研究所)などで研究した女性で。
日本国外で活動した初の日本人女性物理学者です。

女性物理学者への道が始まる
:湯浅年子の原点発明家の父と、帝大一家に育つ

湯浅年子は1910年、東京・上野に生まれた。
父は日本初の完全自動製糸機を開発した発明家、
湯浅藤市郎。兄弟たちも東京帝国大学に進学するなど、
知性と技術に囲まれた家庭環境の中で育った。
幼い頃から病弱で外に出られず、布団の中でじっと考えごと
をする日々が、年子の観察力や好奇心を育んでいった。

災難と日常が育てた、科学への芽生え

火事で小学校が焼けたり、線路を越えて通学する危険性から
転校したりと、年子の幼少期は波乱に満ちていた。
しかし、氷から湯気が出る現象に興味を持ったり、
母のために摂氏と華氏の換算表を作ったりと、
日常の中で自然現象に目を向ける視点を持っていた。
裁縫や茶道には興味を持たず、家庭的な「女の子らしさ」から
逸脱していた彼女だが、それがむしろ科学の道への入り口となった。

「一番わからないから」物理を選んだ少女

1927年、東京女子高等師範学校の理科に進学し、
保井コノらの指導を受けた湯浅は、
「物理が一番わからないから気になる」として、
自然と物理学に惹かれていった。
1931年、女性の大学進学がまだ非常に限られていた時代に、
母の意向を汲みつつも東京文理科大学に進学し、
日本初の「女子物理学専攻の大学生」となった。
こうして、女性科学者としての道が静かに、
しかし確かに始まったのである。

物理にすべてを賭けた決意とフランスへの旅立ち

湯浅年子が「女性物理学者」として歩みを進めるうえで、
内なる葛藤と運命的な出会い、そして
戦争の影響を受けながらも自らの意志で
道を切り開いていく姿は、今を生きる私たちに
多くの示唆を与えてくれます。

自問自答を乗り越えて、物理学に専念

大学時代の湯浅は、物理が難解であることに悩み、
さらには経済的に恵まれた自分の立場への戸惑いから、
当時流行していた共産主義にも関心を示していました。
しかし、恩師・保井コノから
「自然科学でこそ社会に貢献できる」
と諭され、湯浅は迷いを断ち切り、物理学に真剣に向き合う
ようになります。卒業研究では、原子分子分光学を選び、
着実に専門性を高めていきました。

教育職では満たされず、キュリー夫妻の論文に衝撃を受ける

大学卒業後、東京女子大学や女子高等師範学校で
教鞭を執るも、「自分は教育者に向いていない」
と感じていた湯浅。さらに研究環境や分光学の
限界に息苦しさを覚えていたある日、
図書室で出会ったジョリオ=キュリー夫妻の
人工放射能に関する論文に深く感銘を受けます。
これをきっかけに、彼らのもとで研究したいという
新たな目標が芽生え、フランス留学に挑むことを決意します。

戦火と家族の病を乗り越え、つかんだ「魂の自由」

1939年、ついに留学試験にトップ合格し、
女性初のフランス政府派遣留学生に選ばれた湯浅。
しかし、渡航直前に第二次世界大戦が勃発し、
父の余命宣告という困難が彼女を襲います。
悩んだ末に、父の後押しでフランスへ。
戦時下の制限のなか、ジョリオ=キュリーらの支援で
研究機関への所属が叶い、彼女は念願の原子核研究に従事。
祖国では得られなかった「魂の自由」を感じながら、
物理学者としての新たな一歩を踏み出しました。

戦争下の研究生活

戦争勃発と避難生活

1940年5月、ドイツ軍のフランス進撃により、
パリの研究所は危険な状況となりました。

フレデリック・ジョリオ=キュリーの勧めで、
湯浅はボルドーへ避難しましたが、研究ができない
環境に耐えられず、5月31日にパリへ戻りました。

研究所の再開と戦時下の研究

ドイツ占領下の6月、研究所は一時閉鎖されましたが、
9月にドイツ人との共同研究などの条件で再開されました。
湯浅はジョリオの指導のもと、霧箱を用いて
原子核崩壊のエネルギーや運動量の変化を
調べる実験を行い、1941年には論文を発表しました。

戦争の影響とドイツでの研究

日本とドイツの同盟により、フランス国内での日本人の立場
は厳しくなりました。
1944年8月、大使館の要請で
日本人の引き揚げが始まり、湯浅もベルリンへ移動しました。

オットー・ハーンのもとでの研究を試みましたが、
戦線の接近で叶わず、代わりにベルリン大学付属第一物理学研究所
でクリスチャン・ゲルツェン教授の指導のもと研究を行いました。

しかし、空襲の激化で研究所を離れ、5月のドイツ降伏後、
モスクワ経由で日本へ送還されました。

情報源:

FaviconJST‗第16回「フランスの科学技術力 「混成研究」が源泉」|科学技術の潮流 -日刊工業新聞連載-

FaviconCRDS_ パンデミックの時期にあってフランス研究界が果たす役割 « デイリーウォッチャー|(CRDS)

FaviconJST_フランスの科学技術情勢|戦略提案・報告書|研究開発戦略センター(CRDS)
FaviconTTS Press_ブラ・ル・コルプス!展19世紀のコレージュ・ド・フランスの科学者と器具! –
Faviconキッコーマン_酒のみの社会史 19世紀フランスにおけるアル中とアル中防止運動 |
Faviconソリティラパリ_ブラ・ル・コルプス!展19世紀のコレージュ・ド・フランスの科学者と器具!

日本での生活
(後日記載)

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